蘇州の風

興和株式会社
海外統括部上海(蘇州)駐在
鈴木 亮信

1.歴史の街です


蘇州は、中国で紀元前600年くらいの春秋時代に呉の国として栄えた古都です。上海から西へ約70キロメートル、琵琶湖の3倍以上の大きさの太湖のほとりに開けた水の都であることはあまりにも有名です。
その市街を縦横に走る水路と、白壁と黒瓦のコントラストの効いた建物が並ぶ秀麗な情景は、「東洋のベニス」と称されてきました。そうしたモノトーンの情景を背景にして、朝霧に煙る川のほとりで風に揺れる柳は、水墨画の世界のほか何物でもありません。
古くから絹織物の産地として裕福な都市でした。日本では、蘇州といえば「寒山寺」、そしてこのお寺の名を知らしめているのが、あの楓橋夜泊、「月落ち…」の七言絶句です。また、それとは別に、蘇州を一躍有名にしたのは、その経済力をバックボーンとして、主に明時代に競って作られた庭園群でした。今では多くの庭園がユネスコの世界遺産に登録され、そのことでもそうした時代の華麗さがうかがわれます。
春秋期の後期には、その二大勢力であった呉、越の戦いの中、闔閭・夫差2代の王にわたる臥薪嘗胆の故事を知らない人はいないでしょう。その後の三国時代では、魏の曹操と戦った呉王孫権もここを都としていました。諸葛孔明が魏、呉、蜀のいわゆる天下三分の計を図り、まずは大国魏の侵攻を止めるため、呉・蜀同盟を結ぶべく、孫権と呉国司令官周瑜とを説得するために訪れたのは、この地であったかもしれません。町のそこここにそうした歴史の跡をしのばせるニオイを残している建物などを見ることができます。町の北側には、孫権が母の恩に報いるために建てたといわれる報恩寺塔(通称北寺塔)が残っています。九層の、その最上階に上れば蘇州の町が見渡せるというものです。


寒山寺 寒山拾得像


虎丘雲岩寺塔(こきゅううんがんじとう)


2.亜熱帯モンスーン気候群です


水郷沿いの現代住居

この地は「蘇湖熟、天下足(蘇州や湖州が豊作であれば全土の食糧を賄うことができる)」と言われ、「上有天堂、下有蘇杭(天には極楽があり、地には蘇州、杭州がある)」と古代からたたえられてきたほど豊穣の地域でした。
とはいうものの、蘇州や上海は中国でも有数の高温地帯です。日本と比べると所々に厳しい気候が顔を出します。年間平均気温は17度で日本とほぼ同じ服装で過ごすことができます。降水量は年間で約1,100ミリ。東京や大阪よりもやや少なく、晴天が長く続く日もあります。春は日本と気候がよく似ていますが、杉やヒノキはほとんどないので、花粉症患者には過ごしやすい地域です。マスクをしている人も見かけません。
6−7月にかけては、日本では梅雨真っただ中ですが、こちらでは一過性の雨がほとんどです。午前中は晴れていても、午後から天気が悪くなり、スコールがやってくることが多いという典型的なモンスーン気候です。
ただ、夏の暑さは厳しく、7−8月がピークになります。風が少なく熱もこもりやすいので、最高気温は37度以上に達する日も多く、夜になっても気温が下がらず、最低気温でも27度以上となることもあります。日本の夏以上に体感的には厳しい所です。あまりにも高温の場合は熱中症対策のため、企業は操業を停止することを法律で定めてもいます。
一般的な施設や建物には、エアコンが装備されているので問題はありませんが、日中の屋外は非常に暑いので、人々は帽子や水分補給などで、熱中症対策に努めています。
秋は一番過ごしやすい季節ですが、春同様、寒暖の差が非常に激しいので、睡眠時にも注意が必要になります。また蘇州の世界遺産になっている庭園や名勝などでは、寒暖の差が大きい故に紅葉が非常にきれいです。町中は常緑樹ばかりですが、郊外の山や庭園などで素晴らしい錦の絨毯を見ることができます。
冬は、逆に内陸気候特有の気温低下で、寒さは厳しくなります。真冬の最低気温は平均して0度前後、数年に一度寒波が来るとマイナス10度くらいになります。雪はめったに降ることはなく、乾燥した晴天、または冷たい雨になります。しかし、2008年の冬は中国でも記録的な雪となり、蘇州でも50年ぶりといわれる大雪となりました。北風は日本ほど強く吹き荒れませんが、多くの建物がレンガやコンクリートなので底冷えし、当然畳やこたつといったものもないので、初めて冬を過ごした時はかなり厳しいものがありました。


3.新幹線が開通しています


新幹線 和諧号

2007年4月、上海−南京間の新幹線が開通しました。日本のJR東日本の技術協力を得て作られました。
蘇州は上海−南京の大動脈上に位置し、蘇州駅は中国新幹線「和諧号(CRH)」の主要停車駅となっており、毎日20往復運行しています。上海−蘇州間の所要時間は、普通列車で45分〜2時間程度(非常に差があります)ですが、新幹線で30〜45分程度になります。運賃は普通で約15元(約225円)で、新幹線で約30元(約450円)です。その安さは日本と比較になりません。利用状況は、前日に予約しないとまず乗ることは難しく、それだけ利用者が多いことを意味しています。
市内の公共交通網は、現在地下鉄の建設が着工しており、園区と新区を結ぶ軌道交通1号線、 南北を貫く軌道交通2号線が、2010年以降に完成予定です。ますます交通の便が良くなりそうです。


4.ここでは…車優先


テーマパーク 蘇州楽園

交通機関は整っており、市内のほとんどの場所は公共バスで行くことができます。またタクシーの数も多く、繁華街や観光地では比較的簡単にタクシーを見つけることもできます。道路網も整備されていて、日本の京都とまでは言いませんが、縦と横の道路が碁盤の目のように配されていて、割と分かりやすい町並みです。中心部を取り囲むように、高架道路(自動車専用)が通っていて、今現在もどんどん拡張しています。車は左ハンドル車、右側通行で、赤信号でも右折ができます。
交通マナーについては、先進諸国とはずいぶん異なります。まず中国では、「自動車が歩行者や自転車に道を譲る」という概念はありません。青信号で横断歩道を渡っていても車が突っ込んできます。しかも、赤信号でも車は右折できるので、歩行者側が青信号でも、周りをよく注意して「赤信号を渡るつもり」で渡らなければなりません。また、自動車同士でも譲り合う感覚はあまり無く、渋滞になるとそれにさらに磨きがかかります。小さな路地から渋滞している道へ曲がる時も、ほかの人は絶対に譲ってくれません。お互いに「スキ」を探り合いながら、ちょっとでもスキを見せたら突っ込む、といった感じです。「譲ってあげればこんなに混雑することもないのに…」と思うこともよくあります。強引な車線変更や、後ろの車が急ブレーキをしなければならないくらいの無理な割り込みも、日常に見られますが、やられた方もあまり怒らないようです。日本なら強引に割り込まれた方は、怒って車外に出てくる人もいますが、中国ではめったにそれはありません。それもまたお国の違いということでしょうか。
交通マナーがこのようですから、人間同士の関係もそうなのかと思うと、これがまた違います。バスの中などで老人がいると若者は率先して席を譲ります。至極当たり前の行為としてしばしば見受けられます。ですから根底には、弱者をいたわる気持ちは十分持っているように感じます。


5.かけがえのない仲間と共に


近代化を図る中国の地方都市の例に漏れず、ここ蘇州でも古い歴史が残る旧市街地域とは全く異なる近代的な建物が、工業区、技術開発区に建ち並び城市の周りを囲んでいます。現在では蘇州市には繊維製品、精密化学工業、製紙工業、電子工業、機械工業などの産業があり、2003年の国内生産総額は2,802億元、1人当たり国内生産は47,700元、輸出総額は2,227億元に達します。経済規模は江蘇省最大で、省都南京をしのぐほどです。
私が蘇州の工場に赴任して2年が経ちました。 興和はここの工業区で液晶用バックライトの製造およびアッセンブルを行っています。工場建設の後、機械搬入、実稼動立ち上げを、この2年間で進めてきました。機械搬入時には、クレーンでつり上げた機械のバランスを取るために、人が機械に飛び乗ってその役割を行うなど、搬入業者の安全意識の無さなどに肝を何度も冷やし、また腹を立てたことでした。工場が稼動をスタートさせてからは、「何にも優先させるのが安全であり、安全無くしては、品質もコストも納期も保証できない」と繰り返し言ってきたことが、少しずつではありますが浸透し始めています。同じ目標を持つ者が集まり、事を成し遂げていくことが、達成意欲を喚起し、仲間意識を強化すると実感しています。
私が業務上禁句にしている2つの言葉を紹介したいと思います。その1つが「日本では〜だった」、2つ目が「中国人は〜だ」です。どちらの言葉も人種や国家で線を引いていて、この言葉からは、「今この中国という国で人生を共に生きよう!」という心が伝わらないからです。「今の若者は〜だ」や「私の若いころは〜だった」と似ていますね。どちらも人種や国家、世代や時代から逃避している語感を受けます。
私は幸い今ここ中国で人生を共に生きる仲間ができました。ほとんどが20代の若い仲間です。彼らは日本の技術を学び取ろうという面では実に意欲的です。生産設備面、技術的な指導が私の役割ですが、私自身も、彼らとの仕事を通じて日々いろいろなことを学び、驚き、しかり、喜び、同じ飯を食べ、そして酒を飲む仲間ができました。本当に幸せなことです。このような経験ができたことを私は誇りに思い、そしてそのかけがいのない仲間たちと、大切な家族に感謝し、これからも精進していこうと思っています。謝謝!

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