上海たより

蝶理株式会社
取締役 中国総代表
井上 邦久

空を飛ぶ 遣唐使われ クールビズ


2009年7月1日、万博開幕まであと300日余りの上海に着任。上海を根城にして、大連・北京から台北・香港まで各地を回遊魚のように動き回る生活を始めました。20年ぶりの駐在で居留申請・健康診断・銀行口座開設などの手続きの簡素合理化に驚くとともに、天安門事件直後の北京や青島に駐在したころは随分ゆったり、静か、そして少し冷ややかで、またある意味では牧歌的だったのだと思い直しました。当時、青島市長だった兪正声氏が上海市のトップに就任されていることにも、確実な時間の流れを実感させられました。
この十年余り、今月は中国へ、来月は欧米へと交互に出張する機会があり、それまで中国一筋であった生活からちょっとスタンスを変えて、別の角度から中国を眺める目を養うように努めました。赴任して今度は内からの中国を知ろうと少々力んでいましたが、そんな大仰な姿勢を取るまでもなく、中国の変化は身近なところにありました。アパートの隣人の中国人一家4歳児のエリック君は私立幼稚園で英語を習っているので、呼び掛けは英語でお願いしますよ、とママさんから初顔合わせで言われました。そして一緒に乗ったエレベーターが1階に着き、「アフターユー」と言ったところ、母子お2人は地下1階まで降りて高級車で通園し、その後ジムにも週に4、5 回通うと少々照れながら話してくれました。
1階で降りて徒歩通勤する上海暮らしの初っ端に「格差社会」を実感させられた次第です。


カンカン帽 既視感覚の 街を行く


1971年、初めての上海。車は少なく、妙に清潔でガランとした街の様子。和平飯店の窓から見た、手に手に「毛語録」を持った若者の行進が印象的でした。背広やスカートを見掛けないのは北京も広州も同じでしたが、ズボンに真っすぐな折り目が走り、いわゆる人民服の裏にしゃれた色のセーターがのぞいていたのは、上海だけだったような遠い記憶があります。
1981年、上海大廈の一室で3名からスタートした蝶理の上海事務所は、錦江倶楽部(現花園飯店)、聯誼大廈と場所を移し、現在は虹橋地区の国際貿易中心のオフィスに約120名が働いています。それぞれのオフィスの所在した場所に日本からの若い研修社員を案内しながら、上海の街の広がりと日中貿易の変遷の一端を話すこともあります。
急速発展の浦東地区と旧市街の浦西地区を分かつ黄浦江、その川沿いに戦前からの建築物が立ち並ぶ外灘(バンド)から外白渡橋(ガー デンブリッジ)で蘇州河(黄浦江に注ぐ揚子江の孫に当たる川)を渡ってすぐの交差点に浦江飯店(アスターホテル。往時宿泊したチャップリン、アインシュタインそして周恩来らの写真が飾られています)があります。その向かいが初期の事務所を置いた上海大廈(ブロードウェイマンション)。そして、そこから始まる虹口地区は浦東に比べて再開発が後回しになっていました。現在、地下トンネルで浦西地区の高速道路とつながり、街の様子が大きく変わろうとしています。改装中の国際フェリーターミナルから程近い提籃橋地区周辺には、戦前にユダヤ人難民が居住していた(第二次大戦後期には「押し込められた」)一角があり、舟山路付近には古い欧州風建築のアパートに庶民が住み、ユダヤ人居留時代の記念館や記念碑もあります。杉原千畝(1940年7月末から9月初旬のリトアニアで、約6,000人のユダヤ人のビザを発行。戦後川上貿易に勤務し、蝶理による子会社化に伴い、1969年に蝶理モスクワ駐在所長就任)が不眠不休でサインしたビザを持って、日本経由で上海に逃れて来たユダヤ人も居たことと思われます。


ユダヤ人居留区跡の街並み


ユダヤ人居留区跡の記念碑


外灘(バンド)


群鳥が 大廈切り取る 秋の朝


アートエリアM50

芸術の秋:モダンアートは今の上海の空気に合致しているのか、上海のあちこちにアートシーンが生まれています。M50(莫干山路50号。紡績工場跡。規模も大きく、メジャー化)、蘇河芸術(光復路。民族資本家の栄家一族の工場跡)、田子坊(康泰路。最近は地図にも記載され、場所が分かるタクシー運転手も増えてきました。その分だけ観光スポット化?)、上海美術館(礎石に英国系の刻字が残る、競馬場のクラブハウス跡。絵画展示を見るよりも時計台のあるテラスでコーヒーを楽しむことが多いです)、劉海粟記念美術館(虹橋路。普段は人混みはまったくないので、静かな展示室でゆっくりできます)。今日の前衛は明日には陳腐化という流れの速さ。投機対象にも巻き込まれる危険性も含まれそうです。ある美術館の入場券の裏に画商の広告があり、当然のように「投資」という単語が印刷されていました。

食欲の秋:お金が有っても、少ししか無くても楽しめる街でして、路地の片隅の家庭料理の食堂(「我的餐廰」)や何十年も味と内装を頑固に変えない上海料理店(「阿山飯店」不変の姿勢を面白がるのか?店前には高級車の列)、湖南料理(「滴水洞」)や新疆料理(「阿里夏里」)なども盛況。治部煮を供する本格加賀料理(「金澤」)まで楽しみは尽きません。


上海マラソンで駐在員やその家族と一緒に

スポーツの秋:11月の最終土曜日、上海マラソン。2009年は初回でもあり、競走したい気持ちを抑えて完歩が目標で、2010年(今回は12月5日の日曜日に開催予定)はタイムを半分に短縮する算段です。車の消えた南京西路から静安寺までの繁華街を大勢のランナーやウォーカーと進む気分は最高ですし、地域ごとで年間を通じて練習に余念のないCNG(チョット年配のチアグループ)による各色各様の応援にも励まされます。おかげで真下を走る地下鉄2号線の誘惑を振り切って完走(完歩)できました。


冬去りて うぶ毛雨なら 花屋まで


冬の終わりに降る細かい雨を当地では「毛毛雨」と好感を持って呼んでいます。辞書にある小ぬか雨とも違う感じなので、絹糸雨とか猫毛雨とかいろいろ考えた末に「うぶ毛雨」に至った自分勝手な造語です。赴任に際して、連句・俳句の師匠や仲間がパソコンメールを使った句会や連句の座への参加の機会を作ってくれました。思うような言葉が拾えず「苦界」に陥ることもしばしばですが、脆くなりがちな日本語感覚や縁遠くなりそうな季節感覚を呼び覚ましてくれるのでありがたく思っています。
上海は花屋と果物屋が実に多い街でして、社宅近くにも4軒の花屋があって顔なじみです。中でも毎朝出勤時に世間話をする安徽省出身の譚老板(大将)は、最近2人目の子供ができて張り切っています。日本では自宅の花の水やりにさえ関心がなかったのに、駐在生活が落ち着いた2009年秋から菊、水仙、牡丹、沈丁花、桃、茉莉花、そして朝顔と、季節ごとに大将と奥さんから相見積もりを取り(もちろん、しっかり者の奥さんはいつも高値オファー)部屋のベランダまで運んでもらって育てています。
多くの人がアパート暮らし、加速するストレス社会でのささやかな安らぎを花に求める気持ちも分かりつつあります。生態系を重視した自然公園が人気を集めたり、2020年を目標に市民1人当たりの緑地面積を欧米並みの21㎡に高める緑化計画が進行中であったりと、内面充足を良しとする傾向が増えているのでしょうか。また本屋に入れば目立つコーナーに、東野圭吾らの日本の流行小説がかなり早いペースで翻訳発売され、平積みにされています。村上春樹全集や「1Q84」も鎮座している光景は、日本の書店の中国コーナーとはかなり趣を異にしています。ここにも物から心を重視する流れと日本への視点の多様化を感じます。


労働節(メーデー)の 集会止めて 万博へ


春節前に意気消沈していた王ドライバー

4月30日、上海市のみ特別公休日となり、万博前夜祭が行われました。5月1日はメーデーの行進も目立たず連休気分が横溢。上海人の中には好奇心は強くても、見えっ張りの部分があるせいか、一斉にドッと繰り出して万博に行くという雰囲気は感じませんでした。オフィスでも話題にならず、5月初旬は1日の入場者数が10万人前後にとどまり、肩透かし状態でした。その後、徐々に入場者が増えていき、想定入場者数の38万人を超える日も出てきました。7月19日の土曜日にも行きましたが、それまでの経験に基づき西門に15時ごろに行けば空いているという予測通り、券売場も入り口も安全検査場も並ばずに済みました。その日は後で聞くと50万人超えの記録更新日だったようですが、広い会場では混雑の印象はなく夜遅くまで歩き回りました。
その上海万博のスローガンである「Better City Better Life(城市、譲生活更美好)」を今の段階で享受できているのは、恵まれた上海市民が中心だと思います。少なからぬ金を使って外地からやって来て、万博と併せて上海の街や市民生活を見聞した何千万人かの人たちが、それぞれの町や家に戻って語る上海体験談は、中国各地の社会に感動の伝達とBetter Lifeとは何か?という難しい問題を考えさせる契機をもたらすことになるかもしれません。難問の一例を社有車のドライバーの家庭に求めます。春節の前に浮かない顔をしているので聞くと、子供が春節を楽しみにしてくれないのが面白くないからとのことでした。中年の彼が子供のころ、春節にしか口にできないごちそうや買ってもらえない新しい服に感動し、何よりもうれしいお年玉をワクワクしながら待ったものでしたが、今はまさに毎日がお正月でワクワク感が家の中から薄らいできたのが寂しいということでした。Better Lifeはいろんな面での飢餓感を減らしながら、もしかすると素朴な感動や夢までも失わせていくのではないか?ということかもしれません。
2011年は辛亥革命から100周年です。孫文の旧居(香山路)を訪れたり、宋慶齢の陵園(宋園路)を歩きながら、これまでの100年を振り返りつつ、Better Cityとしての上海のこれからの100年、それはオーバーにしても隣人のエリック君が大人になるころ(労働人口がピークを迎え、人口構成が2005年の日本と相似した老齢化傾向になる2025年から2030年)をしばし想像してみようと思っています。
(拙文に目を通して事実関係を確認し助言をくれた、事務所開設時の3名のうちの1人の王和平さん、新旧の文化スポット探訪に同行し、セミプロ級の腕で写真に収めてくれた施建球さんの協力をもらったことを付記します)

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