再発見!メキシコ

Nagase Enterprise Mexico, S.A. DE C.V.
総支配人
伊藤 靖

1. メキシコと日本


2010年7月にメキシコに現地法人を設立、業務を開始してからはや9ヵ月。まだまだ新しい発見が続く日々ですが、メキシコの素晴らしいところについて皆さまに少しでもご紹介をさせていただければと思います。
まず、メキシコは親日であるというイメージをお持ちの方が多いと思いますが、なんとメキシコと日本の交流の歴史は400年以上にも及びます。そう、江戸時代からの交流があったのです。
江戸時代の初め1609年(慶長14年)9月、フィリピン総督ロドリゴ・デ・ビベロ率いる船団は、マニラからヌエバ・エスパーニャ(当時のスペイン領メキシコ)への帰国途中、千葉県房総の御宿沖で座礁難破しました。地元の漁民たちに助けられた乗組員317人は、当時の大多喜藩主本多忠朝に歓待され、徳川家康が用意した帆船でメキシコへ向けて出帆しました。この船に乗船していた京の商人田中勝介他20数名の日本人がメキシコを訪問した最初の日本人となりました。これがメキシコと日本の交流の始まりです。
その後、1888年に日本とメキシコは平等条約である日墨修好通商条約を締結し、19世紀末には榎本移民団によるメキシコへの移住が始まり、第二次世界大戦後まで続きました。移民者の数は総計1万人余りに達し、その子孫が現在でもメキシコの各地に住んでいます。
2002年10月、ロスカボスにおける日墨首脳会談で日墨経済連携(EPA)強化のための協定の締結交渉を開始することで合意。同協定は2004年9月17日にメキシコにおいて小泉総理とフォックス大統領間で署名され、2005年4月1日に発効し、両国間の経済交流をより促進することになりました。
交流400年を祝賀し、またさらなる両国の交流を発展させるべく日本とメキシコ両首脳の会談が開催されるなど、2009年から2010年にかけてさまざまな分野で両国間の交流イベントが開催されました。これからも両国の関係を一層強化していくことが期待されます。


2. メキシコの自動車産業


意外に緑が多いメキシコの町並み

現在、弊社のビジネスの中核を占めているのは自動車産業です。2010年の自動車生産台数(大型バス・トラックを除く)は急回復した輸出に支えられ、前年比約50%増の226万776台で過去最高を記録しました。メキシコ国内での販売台数は8.7%増の82万406台となりました。
2010年の生産台数では世界9位の位置付けです。メキシコで乗用車生産を行っているのは、GM、フォード、クライスラー、フォルクスワーゲン(VW)、そして日産、ホンダ、トヨタの合計7社です。メキシコは1962年に国内の自動車産業を保護するために完成車の輸入を禁止しました。このため、国内市場での販売を行うためにはメキシコでの生産を行う必要があり、VWは1967年に国内生産を開始し、その後、日産も間もなく生産を開始しました。メキシコ国内の最大の市場はメキシコシティ周辺であるため、欧州からの貨物の主要港であるベラクルス港とメキシコシティの間に位置するプエブラ州がVWの生産拠点として選ばれたのでしょう。これに対しアジアからの輸入貨物が主に太平洋側のマンサニージョ港で荷揚げされるため、日系メーカーの日産、ホンダが首都圏の西側に進出しています。
また、完成車を主に米国に輸出する自動車メーカーはメキシコ北部に工場を持っており、2005年からピックアップトラックの生産を開始したトヨタも米墨国境付近に進出しています。このように見てみますと、各自動車メーカーのさまざまな考えが非常に興味深く思われます。現在も新たに工場建設の検討を進めている自動車メーカーのうわさが聞こえてきており、自動車産業のますますの発展が非常に楽しみです。


3. メキシコの食べ物


お昼のタコス屋風景


地酒のように種類豊富なテキーラ


抜けるような青い空に原色の街、タコスにテキーラ、だけがメキシコではありません。例えばわれわれが日常的に食べているものの中に、実はメキシコを原産とするものがいくつかあります。代表的なものとして、まずは、チョコレートとバニラ。チョコレートはスイス名物、フランス語が語源などと思っていらっしゃる方が多いかと思いますが、もともとナワトル語の「ショコアトル」が語源です。1519年、スペイン人エルナン・コルテスがアステカ帝国の都テノチティトラン(現在のメキシコシティ)に到着した際、当時のアステカ王モクテスマ2世はカカオから作られるショコラテ(いわゆるココアドリンク)にバニラの香りをつけた飲み物をサービスしたそうです。メキシコではカカオ豆に砂糖を入れる習慣はありませんでしたが、コルテスはこれをスペインに持ち帰り、その後、スペイン国王からフランス国王に贈られ、砂糖を加えたカカオの飲み物が欧州王侯貴族の間に広まりました。
次にトマトととうもろこしがあります。トマトは南米のアンデス高原(標高3,000mの高地)が原産とされていますが、10 世紀ごろメキシコに持ち込まれた野生種のトマトが栽培化され一般化したという説が有力です。てっきりイタリアかと思っていましたが、イタリアでパスタやピザにトマトソースが利用されるようになったのは19世紀中頃からの話です。とうもろこしの原産地については諸説あるようですが、現在はメキシコからグアテマラ、ホンジュラス、ペルー、ボリビアなど南米北部地域とされています。とうもろこしの生地を焼いたトルティージャがメキシコ料理の基本ですが、肉などの具を挟めばタコス、油で揚げればトスターダス、辛いソースに浸せばエンチラーダと応用料理も多彩です。


4. フリーダ・カーロ


フリーダ・カーロ「VIVA LA VIDA」の絵

メキシコを代表する画家といえば、フリーダ・カーロとディエゴ・リベラが有名です。メキシコ革命直前の1907年、フリーダ・カーロはメキシコに生まれました。活発な子供でしたが、6歳の時、小児マヒで右足が不自由になり、18歳の時には、バスと市電の衝突事故に巻き込まれ、手すりのパイプが右腰下腹部に突き刺さるという悲劇に見舞われます。一命は取り留めましたが、ギプスのまま寝たきりの生活が始まりました。父はフリーダに絵の道具を与え、横になったまま自画像が描けるように固定イーゼルとベッドの天井に鏡を取り付けてあげました。生涯を通じて自画像を描き続けたフリーダの創作は苦痛と共に歩み始めました。けがから回復した3年後にフリーダは、メキシコを代表する画家ディエゴ・リベラと出会い、フリーダ22歳、巨漢のリベラ43歳の時、2人は結婚しました。
リベラの奔放な生活のためにフリーダは苦しみますが、ひたすらリベラを思い続け、1954年に47歳の生涯を閉じました。
死の前日、フリーダは1ヵ月後に控えた銀婚式の指輪をリベラにプレゼントしたそうです。VIVA LA VIDA「人生(生命)万歳」フリーダ・カーロの遺作です。自分自身を全身全霊で生き抜いた彼女が最後にたどり着いたVIVA LA VIDA「人生(生命)万歳」。これに触発され、英国の音楽バンド、コールドプレイは2008年に「Viva La Vida OR Death & All His Friends」というアルバムを発表、「VIVA LA VIDA」というシングルは1位を獲得、人気を博しました。


5. 世界記録と明るい未来


2009年のクリスマス、世界一高いクリスマスツリーは、メキシコシティ、レフォルマ通りに作られた高さ112mのツリーでした。2010年の1月3日、ディア・デ・レージェス(公現祭)では、長さ720m、重さ12tの世界最大のパン(ロスカ・デ・レージェス)が市民25万人に配られました。また、2009年2月16日には3万9,897人が同時にキスをするというギネス記録がメキシコシティのソカロ広場で樹立されました(どうして奇数人なのだろう!?)。そう、メキシコ人は世界一が大好きです。チワワ犬はメキシコ原産の世界一小さな犬ですし、そのほか、コカコーラ消費量世界1位、子供の肥満率世界1位(大人の肥満率は米国に次いで2位)、憲法改正の回数世界1位(405回、ちなみに2位はスイス)などという記録もあります。また、最近では、カルロス・スリムが世界長者番付1位に復帰しましたし、女子ゴルフ界のロレーナ・オチョアは世界ランキング1位で引退しました。
皆さん、こんなにメキシコには世界一があるのをご存知でしたか?
また、昨年2010年はメキシコ独立200周年、メキシコ革命100周年、カンクンでのCOP16開催、ミスユニバースのメキシコ代表受賞など、メキシコにとって国際社会にアピールする機会の多い年でした。弊社もこの記念すべき年にメキシコ事務所を開設することができました。
メキシコの人口は約1億人ですが、その半分は30歳以下と若い人が多い国です。とても真面目で勤勉、陽気なアミーゴの国メキシコが明るい未来に向けて発展できるよう、弊社も微力ながらお役に立てればと思っています。
チチェン・イッツアやウシュマルなどの世界遺産、カンクンやロス・カボスなどのビーチリゾートなど魅力一杯のメキシコを皆さまもぜひ一度、訪れてみてください。


独立記念塔


独立記念日に大統領が「VIVA MEXICO」と
雄たけびをあげる国立宮殿

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