親日の国「トルコ」にて

トルコ住友商事会社
社長
舘 照雄

こいのぼりの目録贈呈(右が筆者)


1. はじめに


日本でも最近では「トルコ」が報道であれ、皆さんの口々であれ、話題として取り上げられることが多くなったと思いますが、それでも、日本に住む皆さんにとっては「トルコ」を身近に感じることは少ないのではないかと思います。私自身は、「トルコが親日国としてよく知られている」ことも知らずに、2007年5月、イスタンブールに駐在を始めました。


2. イスタンブールの素晴らしさ


学生時代にビザンティンの経済社会に関する授業を受けたか、書物を読んだか、コンスタンティノープルのかすかな記憶を抱いて、イスタンブールに着任してまず一番に驚かされたことは、ボスフォラス海峡を挟む両岸の景観の美しさでした。空の青、丘の樹木のそれぞれに濃淡のある緑、色とりどりの中にも白く輝く四角い家々、そしてその中にピンク色に染まるエルグアン(日本名では西洋花蘇芳・セイヨウハナズオウ)、そして、ボスフォラスの海の青、誰もが絵筆を取りたくなる、そんな美しい景色です。
この同じ景色(建物はなかったでしょうが)をビザンティンの人々も眺めたかと思うと何か不思議な思いですが、今はイスタンブールの人々が思い思いの時間にこの景観の中に溶け込み、うれしそうに楽しそうにしている情景がそこにあります。まさに、ボスフォラスはイスタンブールに与えられた自然の宝物です。われわれも天気の良い週末には海峡沿いを散歩したり、気軽に船着場に行って、クルーズを楽しんだり(料金は1,000円足らず)、なんともぜいたくな時間を過ごしています。
ボスフォラスが「自然の宝物」である一方(あるなら)、ビザンティン帝国、オスマントルコ帝国の1,600年の長きにわたりまさに国の中心であったイスタンブール旧市街地は、世界遺産に登録される「歴史の宝物」でしょう。年間3,000万人の観光客が訪れるといわれるトルコですが、イスタンブールで誰もが足を運ぶのが、ビザンティン帝国の象徴であるアヤソフィア博物館です。アヤソフィア(現在の建物は563年に完成)は欧州人にとって聖地の1つと言っても過言ではない場所であり、私自身、何度訪れてもそこに一歩足を踏み入れた瞬間になんとも言えぬ空気に包まれる歴史の空間です。
一方でこの「ローマの偉大さの象徴としてのアヤソフィア」を超える「オスマンの象徴」の建造を追い求め、「スレマーニア・ジャーミー(モスク)」や「セリミエ・ジャーミー」(世界遺産)を設計・建築したミマール・シナン(1498-1588)という偉大な建築家が「トルコの宝物」であることを教えてくれたのもアヤソフィアです。シナンは生涯の間に477の建築作品を造っており、現在ではそのうち196が現存しているそうです。時代的にはイタリアのダ・ヴィンチやミケランジェロと同時代人であり、イスタンブールとイタリア各都市との交流の盛んな時代でもあり、ひょっとしたら、天才同士が出会った(影響を受けた)かも?


3. 欧州とアジアの懸け橋


ボスフォラス海峡とエルグアンの花

西暦330年にコンスタンティヌスⅠ世がこの地をローマ帝国の新たな都に定めた理由は思いも及ばぬところですが、ビザンティン時代、オスマントルコ時代を通じて、帝国の中心地としてイスタンブール(さらにはトルコ)が発展を続けてきた理由として、欧州と中東、さらにはアジアとを結ぶ地政学的な要衝であることが挙げられます。ボスフォラスはイスタンブールを欧州側とアジア側に分ける境界線であり、イスタンブールに住む人々にとっては、毎日が欧州とアジアとの行ったり来たりの生活です(実際にみんながそのように感じているかどうかは別にして)。そのような生活環境からイスタンブールに住む人たちの中には自分たちを欧州(人)の一部と考えている人が多いように思われます。


海底トンネル徒歩ツアー参加者の記念撮影

ボスフォラス海峡には欧州とアジアを物理的に結ぶ2つの大きな橋が架けられています。第1の橋(1973年完成)はイギリスの技術で、第2の橋(1988年完成)は日本の技術によって架けられ、まさに両大陸をつなぐ大動脈です。トルコの社会経済の発展に伴い、この2つの橋はいつのときもたくさんの車が行き交う忙しい橋となっています。第3の橋が強く望まれる中、2003年に何とボスフォラス海峡の下に鉄道を通すという事業(ボスフォラス海峡横断鉄道)が日本の技術で始まることになりました。2008年にNHKの番組「沸騰都市」でも紹介されましたが、トンネルを掘るというよりトンネル(沈埋函)を敷くといった表現がぴったりの独創的な工法で世界最深沈埋トンネル(海面下60m、全長1,387m)の工事が進められ、私の駐在期間中、まさに突貫工事が続けられています。そんな折、2011年3月に事業企業(大成建設)様より機会を頂き、貫通直後のこの沈埋海底トンネルを歩いて渡るという得難い経験をすることができました。2011年2月にトンネル内で行われた貫通式の式典にはエルドアン首相も出席されましたが、その貫通式の式典現場(トンネルの中間点近辺。その場所で記念撮影)へ向けて欧州側(シルケジ駅西立坑現場)から歩き、アジア側(ウスクダル駅舎現場)へ抜ける約4㎞の徒歩ツアーでした。歩行中、「今、海峡の真ん中の地点まで歩いてきました」との説明を受けた時に感じた「この上60mに海面があると思うとゾクゾクするなんとも言えぬ感激」は今でも体の中に残っています。それにしても、よくもまあこんなすごい事業をやってのけるなんて(橋とは違って、地図に載るのかどうか分かりませんが)、現代の「アヤソフィア建設」とも言うべき偉業を成し遂げるなんて、すごいことだと、日本人として、自慢したくなる気持ちです。


4. 日本とトルコの友好の絆と「2010年トルコにおける日本年」文化事業


「日本年」友好式典での
張・日本年実行委員長のご挨拶

マルマライトンネルが日本からトルコの皆さんへの友好の証しというわけではありませんが、2010年にトルコにおいて「日本年」文化事業が1年余りにわたり開催されました。2010年が1890年に日本で起きたトルコ海軍軍艦「エルトゥールル号遭難事故」からちょうど120年目に当たる年であり、これを機に日本とトルコの友好を一層深めようと、「日本年」が開催されました。日本からは寛仁親王殿下(「日本年」名誉総裁)をはじめ日本側実行委員(実行委員長は張トヨタ自動車会長)の皆さまにもお越しいただき、あわせて約200件の文化事業が開催され、多くのトルコの皆さんにも参加いただき、両国の文化交流に大きな足跡をしるすことができました。私はたまたまトルコ側の「日本年」実行委員長を務めさせていただくことになり、数多くの現場に参加することができ、あらためて日本を思ったり、日本とトルコのことを考えたり、とても貴重な経験をさせていただきました。遅まきながら、この「日本年」文化事業を通じ、日本とトルコの友好の原点を知ることができ、トルコがなぜ親日国として知られているのかも目の当たりにすることができました。また、1985年にテヘランから在留日本人215名が「トルコ航空機に乗って」無事に脱出できた話もきちんと知ることができました。
また、「日本年」文化事業を通じて、文化交流のさまざまな場面でイスタンブル日本人学校の児童・生徒さんに活躍いただきました。イスタンブールには約1,000人の在留登録日本人がいますが、この「日本年」文化事業を通じて、交流の輪が広がり、societyとしての絆が深まったのではないかと思っています。毎年10月にイスタンブールで行われるユーラシアマラソン大会のフリーランの部に「日本年」記念イベントとして日本人会の文化行事として参加し、みこしを担ぎ出し(実際は引っ張りましたが)、イスタンブー ル市長との記念撮影にも成功し、みんなで第一ボスフォラス大橋を2本の足でさっそうと(?)駆け抜けました(普段は歩行禁止です。歩行者があるとすれば、橋の中央から身を投げることを考えて歩く人くらいです)。


みこしとその前に立つ
トプパッシュ・イスタンブール市長

日本とトルコの友好の原点は「エルトゥールル号遭難事故」にさかのぼるといわれています。その事故の際に遭難現場の和歌山県串本町の皆さんの献身的な救助・支援活動で示した「無償の人道愛」にあると語り継がれています。聞くたびに、頭の下がる思いです。
2008年にトルコの大統領として初めて日本を公式訪問されたギュル大統領はその現場にある慰霊碑を訪問されました。それほどにその現場がトルコにとっては原点であり、そこから発せられる「人道愛」の精神には心を開かせられる思いです。その現場(慰霊碑)をいつも見守っていてくれているのが地元の大島小学校の児童の皆さんだということも知りました。イスタンブル日本人学校の児童・生徒さん、大島小学校の児童の皆さんといったこれからの日本を支え、守っていってくれる若い(多少若過ぎるかもしれませんが)人々がトルコとの友好の絆を身をもって体現してくれていることをこの歳になって知ることとなり、恥ずかしくも、頼もしくも思うところです。2011年4月にはイスタンブールにある日本庭園(イスタンブール市政府の公園としての扱い)で日本人学校の児童・生徒の皆さんと共にイスタンブールで初めてのこいのぼりを揚げ、こどもの日を祝うことができました。「日本年」文化事業として、日本茶室・庭園の補修事業を行い、そのこいのぼりポール台とこいのぼりもイスタンブール市に寄贈しました。これから毎年5月にはそのこいのぼりがイスタンブールの空を泳ぐ風景が見られることをうれしく思うとともにトルコの皆さんの思いやりをありがたく思うところです。


5. 大震災で示された両国の思いやり


このこいのぼりを揚げる計画を進めている最中に東日本大震災が起きました。その時にトルコの皆さんからイスタンブールに住むわれわれに対し被災地の皆さんに向けて、数多くの温かい言葉や励ましの言葉、たくさんの支援を頂きました。機会があって、宮城県七ヶ浜町で救援活動に当たられたトルコの救援隊の皆さんにお会いすることができ、感謝を申し上げましたが、皆さんから聞かせていただいたお話(七ヶ浜は津波で大きな被害を受けた地区)は心に残るものでした。
1人の隊員の方が「日本人の素晴らしさをこの目で見られて私たちはラッキーだと思います。日本人は他人のことを考え、道徳に反することはしないし、他人には迷惑を掛けない。救援隊の私たちへできる限りの協力をしてくれる。私たちは世界中で災害を見てきたが、日本人ほど尊敬に値する民族は見たことがない」と話してくれました。
それから半年後に今度はトルコで大きな地震が発生しました。今度は日本からたくさんの励ましや支援が届けられ(弊社もトルコ赤新月社に義援金を送らせていただきました)、トルコの新聞にも日本からの支援の話がたくさん掲載され、多くのトルコの方々に日本からの熱い思いが伝わったように思えます。その後の余震で救援支援活動中であった日本人が死傷するという事態が起き、悲しい思いをしましたが、亡くなられた宮崎さんのひつぎが日本に帰るその時、トルコ政府がイスタンブール空港の貴賓室前にて、厳粛にも心の込もった葬礼の儀を執り行ってくださいました。私も参列をさせていただきましたが、異例の取り計らいと伺いました。お互いにとって悲しい出来事ではありましたが、その中で、トルコの皆さんの日本や日本人に対する親しい気持ちを肌で感じることができました。


こいのぼりイベントの様子
(イスタンブール日本庭園にて)


救援隊の皆さんとの懇談会(総領事公邸にて)


6. おわりに


といった、そんなこんなのイスタンブール駐在のお話をさせていただきましたが、「トルコが親日的であること」を少しでも感じ取っていただけたとしたら、何よりありがたいことです。手前みそですが、イスタンブールに暮らす日本人の皆さんが「親トルコ的であること」が何より一番です。ぜひ、親日の国トルコへお越しください。

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