青島事情

阪和商貿(青島)有限公司
総経理
江口 規和

1.青島って?! ―青島市の概略


「青島」という言葉から想像することは何だろうか?
青島ビール?それくらいは誰でも知っている。それ以外には…?!広い中国のどこに青島は位置するのだろうか?
知っているようで、意外と知られていない青島、その街に私は駐在をしている。

青島市の概略についてまずは触れてみよう。青島市は山東省の1つの都市ではあるが、副省級都市に認定されている重要な都市である。山東省の省都と思われている方も多いようだが、省都は山東省の中では内陸に位置する済南市である。
青島ビールをはじめ家電のハイアール、海信など中国でも有名企業が名を連ね、GDPは6,615億元、1人当たりGDPは約1万2,000ドル、実質成長率は11.7%(2011年)。対日輸出額61.7億ドルで中国第2位、対日輸入額27.3億ドルで中国第3位(2011年)、ユニクロ、無印良品、大創向けなどの日本向け製品輸出をはじめ、野菜、水産品などの日本向け食品関連の輸出は大変有名である。ちなみに農産物輸出は中国一であり、対日農産物輸出は42.4億ドルで、農産物輸出全体の27.5%を占める。日本からは近く、東京から青島までは約1,770㎞、毎日ANA便が日本との空をつないでいるが、実は東京→宮古島とほぼ同じ距離である。
青島は山東半島南端に位置し、黄海に面している。青島は、神戸に似て山に囲まれ青い海に臨み、風光明媚、気候も良く、中国における重要な海浜都市である。観光リゾート地としても有名で、特に夏場には1日20万人も海水浴客が訪れるほどである。
交通手段はバス、タクシーのみであり、夏場には観光客が多いためにタクシーがなかなかつかまらず苦労するが、これも現在工事中の地下鉄が開通する2014年(予定)には解消されるのだろう。
2008年に行われた北京オリンピックでセーリング、ウインドサーフィンの競技会場にもなり、青島のハーバーを拠点に連日熱戦が繰り広げられたことは強く記憶されている。気候は、温帯モンスーン気候に属することから温暖湿潤で、四季がある。
また、海に面していることから海洋性気候の特徴を示している。春は気温がゆっくりと上昇し、内陸と比べて1ヵ月その訪れが遅い。夏は決して酷暑ではなく、夏が好きな私には時に物足りない暑さの日もあるが、一般にはとても過ごしやすいと感じるはずだ。秋は短く、冬は風が強く気温の低い期間がやや長く続くが、厳寒というほどでもない。全般に降水量は少ないが、そのためか、霧が多い時期がある。全市の海岸線は総長870㎞、そのうち大陸海岸線は730㎞であり、山東省の海岸線の4分の1を占めている。海岸は曲折し、岬と湾を交互に繰り返す。
面積は市全体で1万654㎢、東京都の約5倍、緯度は茨城、遠く米国・サンフランシスコとほぼ同緯度に位置する。
青島市の常住人口は約870万人、大阪府の人口とほぼ同程度。ちなみに山東省の総人口は約9,300万人。青島市の在留日本人は3,000人弱であり、人数的には多くもなく、少な過ぎるわけでもなく、おかげで日本人社会はまとまりがあり、つながりがある程度強く、それが生活する上で心地よい。
ちなみに、韓国人は青島に5万人とも、10万人ともいわれる。
児童数100名弱の青島日本人学校があり、われわれ日系企業のビジネスを支援してくれているJETROがあり、そしてわれわれ在留邦人の心強い守り神的存在である在青島日本国総領事館が2009年初めより中国での在外公館では7ヵ所目として当地に開設された。


2.青島の歴史


青島、というより山東省もそうであるが、歴史・文化で有名な場所であり、青島市は道教の発祥地でもある。6,000年前には既に人類がここで生活、繁栄していたとされる。東周時代には、山東地域で2番目に大きな町・即墨(現在の即墨市)が建設された。秦の始皇帝は、中国統一後、青島膠州市の琅琊台に3回登ったとされる。秦代には、徐福が船団を組み、朝鮮、日本に渡った。漢代の漢武帝は現在の青島市城陽区の不其山「交門宮詣で」を行い、併せて膠州湾畔女姑山で先祖を祭り、立明堂を9ヵ所建てた。清朝末年、青島は既に繁栄した町になっており、かつては膠澳と呼ばれていた。
その後、青島は歴史舞台に登場することはなく、実際1800年代後半までは辺ぴな漁村であり、人々は平和に暮らしていたということなのだろう。
1891年6月14日(清光緒17年)、清政府が膠澳に国防の目的で派兵、防衛兵力を置いたのが、青島建設の始まりである。1891年11月、ドイツが派兵、青島を占領した。青島を中心とする膠州湾一帯を99年間の期限で租借、軍港、鉄道、鉱山開発などを展開。山東半島一帯に影響力を行使した。ドイツはここ青島を模範的な植民地とすべく、ドイツ風の建築や上下水道の整備などの都市建設を行った。誰もが知る青島ビールも1903年、ドイツ統治下で誕生した。
1914年に第1次世界大戦が勃発し、11月には日本が青島を占領、ドイツに代わり軍事植民統治を行った。1919年のベルサイユ条約により青島におけるドイツの権益を日本が引き継ぐことが認められた。青島ビールも日本資本(大日本ビール)の傘下に置かれた。
1919年、中国近代史上有名な「五四運動」は、この決定に反発した中国民衆が北京の天安門で大規模な抗議活動を起こし、山東省における日本権益の中国への返還を要求、「青島を取り戻せ」がスローガンとなり、これが日本排斥運動、反日運動となった事件であるが、5月4日に発生したことでこの名前となっている。
青島市庁舎前の「五四広場」はこの運動を記念して名付けられている。
1922年12月10日、中国は青島を取り返し、商港を開くために膠澳貿易場監督庁を設立し、北洋政府の直属とした。1929年7月、青島特別市を設置。1930年には、青島市に改称した。1938年1月、青島は再び日本により占領下に置かれる。
戦前は4万人を超える日本人が青島に住んでいたといわれており、総領事館、複数の日本人学校、神社などが設置されていた。俳優の三船敏郎、中村八大氏なども戦前青島に住んでおられたとか。1945年日本の敗戦とともに、9月、国民党政府が青島を接収、特別市とした。当時、青島には米軍西大西洋艦隊の指令部が置かれ、国民党主席の蒋介石が度々青島八大関の「花石楼」に滞在した。
1949年6月2日、人民解放軍が青島に入城して青島は全面解放され、山東省管轄の都市となる。1994年には、全国に15ある副省級都市の1つとなり、中国での重要な都市の1つとなる。


蒋介石が当時滞在した「花石楼」(1930 年建立)


市庁舎側から五四広場を望む


3. 青島の風景


前述の通り、青島は海に面した風光明媚な都市であるが、街並みは旧市街、新市街、さらには膠州湾を挟んで青島市区の対岸に当たり経済技術開発区である黄島、加えて有名な「崂山」地域に大別される。

市街地は、日本が統治していた時代に植えられた桜が春には満開となる中山公園を挟んで表情が大きく変わる。西側にはドイツ統治時代の面影を残す街が、東側には1990年代後半から開発が始まった近代的な街並みが広がる。私が好きな街並みは旧市街であり、赤い屋根が特徴の家並みが続く。中国にいながら少し欧州の雰囲気を漂わせる風景を見ることができる。信号山、小魚山の2大絶景スポットから見る旧市街の街並みは一見の価値あり。旧市街の中の「八大関」および「太平角」といわれる地域は、1930年代(国民党政府時代)に建てられた洋館が立ち並ぶ別荘地帯である。
青島は、欧州の雰囲気をそのまま今に伝える建物が多く、省級文化物として21ヵ所、市級文化物は128ヵ所もある。特にドイツの占領時代に建てられたプロテスタント教会や旧提督官邸などの有名建築物も数々ある。また、大規模な公園も数多くあり、海岸線には何と全長37㎞もの海浜歩行道路が整備されており、市民の散歩道として人気を博し、市民の憩いの場所でもある。
有名な青島ビール博物館、製造工場も旧市街に位置する。崂山の澄んだ水と山東省の豊かな大地という自然環境が、青島ビール を、中国を代表する有名ブランドに成長させたが、この博物館、またその周辺地区の露店(ビール街)で飲む無ろ過ビールは最高の味である。無ろ過ビールと海鮮料理、周りの雑踏も心地よい音楽に聞こえ、大勢の中国人と共に飲み、食べる時間は至福の時である。

新市街は市政府をはじめ官庁施設があり、外資系スーパーなどの商業施設、そしてオフィス街となっている。日系企業も新市街を中心にオフィスを構え、邦人の住居もほとんどは新市街にある。海岸沿いに広がる新市街の一部別荘地帯は、老後を青島で暮らしたいと希望する省外の中国人も多く購入していると聞くが、低層階のそういった住居と新市街中心部の高層ビル、高層マンションとのコントラストは興味深い。新市街の中心は現在日系スーパー、「ジャスコ」を中心とする地域となっているが、弊社の現地法人もジャスコと同じブロックにあるCrowne Plaza Hotelのオフィス棟の中にあり、非常に便利であり、その立地条件に満足である。

黄島は青島市の一部で経済技術開発区であり、中国第4位の港街で、名前の通り、青島の経済発展と技術開発を目的としたまだ新しい街である。この地域には、日本企業(工場)も数多く進出し、日本人もたくさん働いている。以前は湾を囲むように走る道路しかなかったため青島市区からの車での所要時間は1時間程度であったが、2011年6月30日に開通した膠州湾大橋、膠州湾トンネルにより大幅に所要時間が短縮された。
その膠州湾大橋は全長42㎞の海上大橋で、当時は世界最長とのことであったが、今は?!膠州湾トンネルは9.47㎞の海底トンネルで、当時は中国最長とのことであったが、こちらも現在はどうなのか?!
崂山は古代の人々が「海の上に最も美しい山在り」と絶賛したほどの中国の名山で、神仙が住まう聖地としてあがめられてきた。崂山は山東半島に連なる山峰で、最高峰は海抜1,133mである。
この地域は、1982年に国務院から全国名勝風景区の1つに認定され、国家森林公園としても認められている。観光コースは、主に3つのルートがあり、それぞれに趣がある。山々には 珍しい形をした岩や穴があり、川が流れ、滝の音がする自然豊かな土地である。中国の山々の中でも珍しい、海に垂直に立つ山で、昔は「神 仙窟宅」「霊異之府」と言われてきた。歴史的にも有名で、秦の始皇帝、漢武帝は、この山に登って仙人を訪ねたと伝えられている。
いろいろな風景がある中、季節ごとにその様相が変わり、また肌に触れる風がそれを都度教えてくれる海浜都市「青島」、中国人の「住みたい都市」の上位にあるだけでなく、日本人にとっても住み心地の良い第2の故郷となり得る街だと思う。


海水浴場から望む新市街


旧市街 プロテスタント教会(1934年建立)


4. 青島での生活


青島に来て気付くことは、海と山に囲まれた風光明媚な青島の風景に感動する、とともに青島人、山東省の人間の良さ、真面目さに驚くことだ。仕事を一緒にしている弊社ス タッフは青島人、山東人であるが、一生懸命仕事に取り組み、彼らと共同作業をする楽しさを感じ、そして充実感を得ている。
客先、仕入れ先共にそういった方々が多く、人間的なつながりを感じながら仕事でのつながりが増えていることに喜びを感じている。苦労も多いが、後に思い出すときには良いことが多く思い出される。

仕事面での充実、一方で生活するという点でもあまり不安、不満を感じることはない。生活をする上での住居は、選択肢はあるが、何より海の見える住居を選択できればベストである。教育という点では前述の通り日本人学校があり、1学年1クラス、1クラスの児童生徒数は平均10名程度であるため、目が行き届き、日本から派遣される熱心な先生のきめ細かい教育が期待できる。
買い物に関してはジャスコがあるおかげで不自由を感じない。日本人から絶大なる信頼を得ているだけでなく、安心・安全を重視する中国人からも支持を得て、連日大盛況である。日本の食品が手に入り、また日本のパン屋さんがあるのはありがたい。
スーパーは外資系カルフール、メトロ、またマイカルなども利用できる。
邦銀は3行あり、中方銀行と併せて銀行業務は特に問題を感じない。
医療は、残念ながら北京、上海のように日本人医師はいないが、青島大学付属病院や市立病院などで十分な治療を受けることができる。 青島は中国でも治安が良い地域といわれているが、日本と違い海外で生活するという点で常に気を付ける必要はある。

前に触れた通り、青島では日本人のつながりが強いという背景には、日本人会の存在があると思う。繊維/食品/機械・電機・化学 などセグメントごとの部会、ゴルフ、ソフト ボールなどの同好会活動、そういったものが先達の方々のご努力により受け継がれ現在に至っている。
婦人会活動も含め日本人同士がそういった活動を通して情報交換、お互いに助け合いながらこの地で生活をしている。
私自身日本人会のお手伝いをさせていただいているが、その活動を通じて知り合いが増えたこと、いろいろな経験をしたことにより自身の幅が広がったと感じている。
駐在員として会社の看板を背負い、少し大げさだが日の丸を背負いながら生活をしているが、その責任を感じながらもダイナミックな、もちろん時には地方営業もある海外での仕事に充実感を感じ、さらには日本では味わえない経験をさせてもらえることに感謝している。最後に、ここ青島に、同じ思いを感じる駐在員がもっと多くなることを期待する。


小魚山から望む旧市街全貌

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