変わりゆく モンゴル

住友商事ウランバートル事務所長
藤原 弘人

1998年の初訪問以来、現在3度目の首都ウランバートル駐在となるが、今回は私なりに過去15年間の同都市の変遷を身近な例でご紹介したい。


1. 初モンゴル



1990年代後半の市街


「大草原・遊牧」そして「大相撲」、これが大方のモンゴルのイメージではなかろうか。モンゴルを訪問する前の私のイメージもこれにたがわぬものであった。
1998年のモンゴル初出張の風景。空港から市内へつながる整備されていない道路脇には夏のナーダム祭の時には競馬会場(当時)になる草原がいきなり広がる。近くで飼われていると思われる家畜たちが闊歩(かっぽ)し草をはんでいる。20分程度で市内へ入ると、様相はさしずめロシアの地方都市といった街並み。高層ビルはなく、古い低層階アパートが連なっていく。
渋滞はなく、車もゆっくりしたスピードで悠々と走っている。市内で見掛ける車の多くは古い「ボルガ」(ロシアの名車)や旧ソ連時代に造られたボロボロの中古車たちである。
当時、外国人が泊まれるホテルとしては元国営ホテルの二つしかなかった(外装は当時のまま今でも営業をしている)。いずれも、電力供給が不十分で、ロビーも部屋も、薄暗い。街灯も少なく薄暗いウランバートルの夜の街がホテルの窓から広がる。
夕食を取りにレストランに入るも、客はおらず従業員たちがテレビに見入っている。客が来ても見向きもしない。自らメニューを取りに行きその場で注文。料理も自分で取りに行く。全てがセルフサービス。民主化移行後 8年が経過していたが、ハード・ソフト両面で旧ソ連時代を抜けきれていなかった。
大規模商店街は国営デパートのみで、販売している商品も家電製品を除けばほとんどが中国製やロシア製であった。スーパーなるものはなく、なんでもそろう青空市場が週末にはにぎわっていた。
主要ビジネスは石炭・銅鉱山と砂金、そしてカシミア製品。名目GDPは約11.2億ドル程度であった。国家レベルでは日本を筆頭支援国としてまだまだ被援助国であり、民間企業も社会主義崩壊後の国営企業を引き継いだ企業が、ようやく先進諸国企業との取引を模索し始めていた。


2. 初駐在


2005年ごろの市内中心部

2年が経過した2000年に初駐在となる。実際に駐在しモンゴル社会にどっぷり漬かると、出張ベースで見えていなかったものが日を追うにつれて見えてくるようになる。
まず一番最初に変化を感じたのは、Motorizationの到来である。街行く車もボロボロの「ボルガ」に取って代わり、中古の韓国車が目立つようになっていた。2003年ごろには「ボルガ」はほとんど見掛けなくなり、韓国車が市場をまさに席巻。また、このころより日本の中古車も目につくようになってくる。
渋滞はほとんどなかったが、駐車状況がひどかった。道のど真ん中での駐車、駐車方向を一切無視した縦横無尽の駐車など自由気ままな駐車による「通行止め」が多発していた。また、車幅が2台分もない道でもわれ先にと双方が突っ込んでいく。当然、道の途中でガチンコ状態となる。お互いバックして道を空ける、譲るということは皆無で、とにかくすれ違おうとする。自分の運転手には止まって相手を先に行かせるように指示をしても、相手が過ぎ去るまでエンジンを吹かして今にも飛び出しそうな勢いで止まっている。
何故かような状態になるのかを考えた末にたどり着いた結論は遊牧民であるとともに騎馬民族でもあるという点であった。思うように駐車するのも、馬であればどんな形で止まろうと馬は自然に整列する。狭い道でも争うように突っ込んでいくのは先に戦利品にたどり着こうとする騎馬民族の名残、そして何としても対面ですれ違うのは、馬は前を向いたままバックすることはできないことに起因している(必ず方向転換をしない限り後ろには行かない)。要は乗る物が変わっただけで、乗っている感覚はあくまで馬のままである。これが当時のMotorizationであった。
一方、「サービス」の芽生えも感じられた。特に飲食業では味の向上および接客の向上が感じられ、着実に来店者数も増えていた。内食から外食への扉が開きつつあり、日本食店も5-6軒に拡大し(味は別として)、食のバラエティーも徐々に増えた。ただ少し繁盛するとすぐに慢心してしまい品質が低下し閉店してしまうレストランも少なくなかった。
2003年当時は、名目GDPはまだ16億米ドル程度ながら、新築アパートやオフィスビルの建設が増加し、街全体から経済の底上げを感じた時代でもある。
民間企業でも、1990年代に勃興した新興企業が徐々に外資と提携し、企業規模を拡大していったのがこの2000年代前半であった。
このころは、後に世界最大級の銅・金鉱山と認められるOyu Tolgoiや世界最大級の原料炭鉱山のTavan Tolgoiも世界のひのき舞台に登場した時代でもあった。


3. 2度目の駐在へ


2007年、3年半ぶりに再度ウランバートルに駐在した。
既に資源ブームを背景に、GDPも42.4億ドルになっており、市内は外資・外国人参入を当てにしたオフィスビル・アパートの建設ラッシュで昼夜を問わず建設工事が行われ、バブルの様相を呈していた。
街行く車は、高級車および日本の中古車の台頭が著しく、韓国車を凌駕(りょう が)し始めていたころで、出退社時には渋滞も発生し、深刻化しつつあった。ただ、整列駐車の実施、バックすることなど運転の基礎技術に関しては前回駐在時に比べ大きな進歩があった。ただ、先を争う騎馬民族の精神は健在で運転マナーは相変わらずだった。
サービスの向上は遅々として進んではいなかったものの、経済発展に伴い外食産業は拡大し、日本食店も見よう見まねのものを含め、在留邦人400人弱ながら10店舗以上開店していた。スーパーマーケットには日本のコンビニほどの種類はないものの(陳列棚には同じ商品が長いもので幅1mほど陣取っている)、都市部での生活水準の向上は、物量面で1998 年当時に比べて隔世の感があった。
経済の分野では、2008年のリーマン・ショック後の経済危機がモンゴルにも時間差で押し寄せ、厳しい状況に直面したものの、資源価格高騰とともに、急回復し2010年の GDPは、62.4億ドルに達した。資源価格の高騰は外国直接投資を毎年倍々ゲームで増加させ、資源開発のみならず周辺ビジネスおよび市民生活にも大きなビジネスチャンスをもたらした。


現在の中心部 夜景


4. そして3度目の駐在へ


受勲式典

急速な経済発展を期待しながら、2010年に 2回目の駐在を終え、日本に帰国。その後も、縁あって引き続きモンゴルビジネスを担当した。また、光栄なことに2012年モンゴル国大統領より両国間の友好に貢献したとのことで、友好勲章を受勲させていただく名誉にも恵まれた。モンゴルへの思いもさらに強くなり、もう一度お役に立てればという気持ちで再度駐在に立候補、2013年3月より3回目の駐在を果たした。


現在の市街地

現在、Motorizationはさらに進み、日本車が市場を席巻する一方(目測7割以上)、大渋滞も日常茶飯事で発生、前回駐在時代に10分程度だった移動が、時間帯により1時間以上要することもある。渋滞多発により、政府もついにナンバープレートの番号制限で市内に乗り入れる車を規制。当初はナンバープレートを2枚用意し毎日付け替えるとか、それができない場合はナンバープレートを取り外したまま走行するなどの猛者も現れ、軒並み御用となっていた。今夏は、渋滞を緩和するため、車幅の拡大工事が至る所で行われているが、一時的にせよ、渋滞に拍車を掛けている。
また、億円単位での高級アパートも飛ぶように売れ、一般市民を対象とした中規模アパートの建設ラッシュが一層加速。街の中心部には高層オフィスビルが立ち並び、高級ブランドショップが店を構えている。一方で、冬季の大気汚染を避ける人たちのため、空気のきれいな市南部の地域が一大開発地帯となっている面もある。
外食におけるサービスは着実に向上しており、サービスの提供に対して対価が得られるという意識が浸透してきている。
加えて、2012年のGDPは102.8億ドルに達し、銅・金・石炭の主要鉱物資源の輸出がモンゴル経済・市民生活を底支えしていることは疑う余地がない。
民主化後23年の成長は世界的にみれば遅々としたようにもみえるが、人口280万人の小さな国が、現在のような成長を遂げるとは、1998年の時点で誰が予想できたであろうか。
日本においても15年という期間は決して短くはなく、その変化は多様である。ただモンゴルの発展は目に見える形で現れており、国民がそれを享受することに喜びを感じているのが分かるので、自分自身にもドキドキワクワク感がある。大草原に広がる雄大な自然も魅力的ながら、日々の生活で感じるドキドキワクワク感、これも私を引き付けるモンゴルの大きな魅力の一つである。

変わりゆく モンゴル 誌面のダウンロードはこちら