2026年5・6月号(No.834)
CBC EUROPE S.r.l.の張勝亮と申します。2020年10月からイタリア・ミラノに駐在し、医薬・化学関連の商社業務に携わっています。ミラノはファッションの都として有名ですが、周辺には医薬・化学、包装、製造などの産業が集積し、商談の焦点は「価格」以上に、品質・規制対応・安定供給へと移っています。本稿では、駐在5年で感じた発見やギャップを、日々の実感と小さなエピソードを交えてご紹介します。
ミラノ赴任前は、欧州の商談は合理的でスピーディーに進むという印象を持っていました。実際に仕事をして驚いたのは、結論そのものよりも「関係者が納得する層」を丁寧に重ねることが重視される点です。医薬分野では品質保証、変更管理、監査対応、供給リスクなど論点が多く、短い会議で白黒を付けるより、背景や前提条件をそろえながら合意点を作っていきます。
その過程で効いてくるのが、対面での会話と、日常の小さな接点です。エスプレッソ一杯の立ち話で相手の温度感を確認し、次の打ち手を考えることも少なくありません。オンライン会議が普及した今でも、重要局面では「一度会ってから決めよう」となる場面が多く、対面の価値が戻ってきたと感じます。時間は要しますが、いったん腹落ちすると関係が長く続きやすく、商社としては情報整理と段取りで信頼を積み上げる重要性を学びました。
ここ数年で最も変わったのは、顧客が求める「安心」の中身です。以前は価格、条件、リードタイムの最適化が中心でしたが、いまはサプライチェーンの強靱性、トレーサビリティ、文書整備といった“見えない要件”が前面に出てきました。物流が揺れるたびに問われるのは、結局のところ「必要なときに、必要な品質で、確実に届くのか」という一点です。
特にアジア発の輸送では、紅海周辺の航路事情など地政学リスクの影響もあり、かつては約1ヵ月で到着していたものが、2ヵ月以上かかるケースも珍しくありません。遅れるのは日数だけではなく、欠便、寄港地変更、混雑による遅延が重なり、到着見込みが読みづらくなります。結果として商社の役割は「手配する」から「不確実性を前提に組み立て直す」へとシフトしました。代替ルート、分納、優先順位、必要書類の再点検まで、最初からシナリオを複線化して提示することが求められます。
その中で重みを増しているのが“近くで持つ”発想です。在庫は単なるコストではなく、確実性を買う保険になる。どこに、どの単位で、どの水準を置くか。温度管理や期限管理、記録の整合性まで含めて設計し、「在庫を持てます」ではなく「確実性をどこまで上げられるか」を具体化する──ここに価値が移っています。華やかな街の裏側で、社会を支える地道な管理と調整が静かに回っていることを、駐在して実感しています。
生活面でのギャップは、利便性の尺度が日本と異なる点でした。都市機能は高いものの、住居契約や役所手続き、医療機関の予約などは、想像以上に「段取り」が重要です。英語が通じる場面は増えましたが、重要な局面ほどイタリア語が必要になり、書類の言い回しひとつで進み方が変わることもあります。
ただ、その不便さを補うのが、人の距離の近さです。困っていると、管理人や近所の方、店員の方が自然に手を差し伸べてくれる場面に何度も助けられました。時間に厳密でないと感じる瞬間もありますが、相手の事情を織り込みながら現実解を探す柔軟さもあります。こちらも「完璧な手順」より「進めるための最短ルート」を考えるようになり、生活と仕事の両方で、優先順位の付け方が鍛えられた気がします。ミラノは効率一辺倒ではない分、暮らし方に自分の工夫が反映されやすい街だと感じています。
肉料理も豪勢かつ美味
(フィオレンティ―ナステーキ)
ミラノで暮らして面白いのは、夕方の時間の使い方です。代表的なのがアペリティーボ。仕事の後に一杯だけ飲み、軽食をつまみながら会話をする文化で、長時間の深酒というより「今日を閉じる」ための習慣に近い印象です。結果として平日でも人が集まりやすく、情報交換が自然に生まれます。ビジネスでも、いきなり会議室に入るより、まずバールで短く話して方向性を合わせることがあり、そこから商談が滑らかに進む場面を何度も見ました。
エスプレッソ文化も、街のテンポを象徴しています。短い時間で気持ちを切り替え、次へ進む──一見せわしない都市でありながら、呼吸を整える“間”が生活に組み込まれています。そうした小さな習慣が人間関係を維持し、都市の回転を滑らかにしているように見えます。駐在員としては、成果を急ぐほど、まず現地のリズムに合わせることが近道になる──そんな逆説を、日々の一杯から学んでいます。
ミラノのファッションウィークやサローネ(家具見本市)の時期になると、街の表情が一気に変わります。ホテルは早くから埋まり、交通は混み、中心部のレストランは予約が取りづらくなります。展示会場だけでなく、ショールームや歴史的建造物、時には中庭や店舗までがイベント空間になり、街そのものが巨大な会場として機能します。
興味深いのは、華やかさの裏側で運営の実務が非常に緻密なことです。搬入出の時間管理、警備、スポンサー対応、会場設営、近隣への配慮──見えない仕事が積み上がって初めて、あの“美しい瞬間”が成立します。ここに「美意識はディテールに宿る」というミラノの価値観を感じます。
医薬の世界でも、品質は細部の積み重ねで決まります。分野は違っても、細部への執念が競争力をつくる──イベントの熱気に触れるたび、仕事の現場で向き合う「文書の整合性」「手順の一貫性」といった地味な作業が、実は同じ精神でつながっているのだと実感します。
近年のミラノでは、物価上昇を生活のあちこちで感じます。外食は以前より明らかに高くなり、電気・ガスなど公共料金への意識も変わりました。その分、スーパーと市場を使い分け、自炊を工夫する人が増えています。「手頃で質の良い食材をどう組み合わせるか」が、ちょっとした腕の見せ所になるのは、食文化が生活に近いイタリアらしさかもしれません。
また環境意識の高まりを背景に、中心部の交通ルールや規制は年々細かくなっています。「車で行ける範囲」や「使える車種」など、都市のルールを理解したうえで移動手段を選ぶ必要があり、徒歩や公共交通の比率が高まった印象です。
街は多国籍化が進み、英語が通じる場面は増えましたが、制度や生活ルールを正しく把握するには現地語が欠かせません。変化は派手ではなく、小さな改訂の積み重ねで暮らし方をじわじわ更新していきながら「静かな変化」を読み取り、日々の段取りに落とし込むことが、駐在生活の一部になっています。
ミラノの魅力は、ファッションやデザインの華やかさだけでなく、その背後で多様な産業と生活が堅実に回っている点にあります。医薬関連の仕事を通じて、品質・規制・安定供給といった“当たり前を守る力”の重さを日々学びました。一方で街の美意識は、装いだけでなく、店の見せ方や言葉遣い、時間の使い方など細部に表れます。
駐在5年目となり驚きは減りましたが、小さな違いを面白がれる余裕が生まれました。今後も現地の変化を丁寧に追い、ミラノが持つ創造性と実務のバランスから学び続けたいと考えています。読者の皆さまも機会があれば、名所巡りに加え、バールの一杯や市場の活気など「働く街」としてのミラノも味わっていただければ幸いです。
(写真左)ヴェネツィア ブラーノ島とゴンドラ
(写真右)マッジョーレ湖 ベッラ島