2025年9・10月号(No.830)
私は2021年9月にインド・ムンバイに赴任し、その半年後に家族を帯同しました。AIに「インドといえば?」と聞くと「カレー、ボリウッド、カースト」と返ってきました。赴任前の私のイメージも同様で、実際に暮らしてみるとそうした場面に日々出会います。
インドはとても奥深い国です。14億人超の人口と日本の約8.7倍の国土、多様な民族、宗教、言語が共存する多様性の縮図であり、その中での統合力とエネルギーには圧倒されます。本稿では、私が駐在中に体験したムンバイのリアルを生活・仕事の両面からお伝えします。
私が駐在しているムンバイは、インドの西海岸に位置し、アラビア海に面したマハーラーシュトラ州の州都です。年間の平均気温はおよそ27℃前後と高めではありますが、日本のような真夏・真冬の過酷さはなく、Tシャツ1枚で過ごせる気候のため、比較的順応しやすい環境です。
一方で、同じインドでも地域によって気候は大きく異なります。例えば首都のデリーでは、冬の気温は1桁台まで冷え込むこともあれば、夏には50℃近くまで気温が上昇します。同じ国でもこれだけ異なる気候が存在し、「インド」と一括りに語ることの難しさを改めて実感します。ムンバイには明確な乾季と雨季があり、6-9月頃に訪れるモンスーン雨季)には、道路の冠水による渋滞の悪化や、水質の変化に伴う体調管理にも注意が必要になるなど、生活面でやや気を使う時期となります。一方で、インド全体で見ればこのモンスーンは非常に重要な意味を持ちます。インドは農業大国であり、農地の約半数がいまだに灌かん漑がい設備を持っていません。そのため、モンスーンの雨が作物を育てる水源であり、経済全体を支えている存在でもあります。こうした背景から、モンスーンは単なる天候にとどまらず、「経済と人々の営みに恵みをもたらす命の雨」と表現されています。またインド映画の中では、恋の始まりや感情の高まりを象徴する演出として雨が多用されるなど、雨は特別な意味を持ちます。
モンスーンが終わると10-3月の乾季に入ります。この時期、ムンバイを含む多くの都市で生活の大きな課題となるのが大気汚染です。農地の野焼きや祝祭時の爆竹・花火の影響、さらには冬場の冷え込みと乾燥により空気が滞留してしまうことから、特に北部の都市では空気の質が急激に悪化します。より深刻なデリー周辺では「息をするだけで寿命が縮まる」とさえいわれるほどです。統計によれば、大気汚染の影響で平均寿命が最大12年短縮される地域もあるそうです。こうした背景から、駐在員の自宅では空気清浄機を各部屋に設置することが一般的となり、外出時はマスクが欠かせません。近年は、政府による規制強化や対策が進み、インドが国際社会から注目される中で改善の兆しも見え始めています。
ムンバイは東京都23区とほぼ同じ面積(約600㎢)ながら、人口は2,000万人を超え、世界でも有数の過密都市です。高層マンションが立ち並ぶ一方で、すぐ隣でストリートチルドレンが裸足で歩くような光景も見られ、極端な貧富の差が日常に共存していることを実感します。
世界で最も人口密度の高い地域の一つが「ダラビ(Dharavi)」です。映画『スラムドッグ$ミリオネア』の舞台としても知られ、約2.4㎢の土地に70万-100万人が暮らしているといわれています(ただし、正確な人口は諸説があるようです)。
ダラビは単なる低所得者層の居住地ではなく、年間10億ドル規模の経済活動を生む産業集積地でもあります。特にリサイクル産業が盛んで、ムンバイの廃棄物の約80%がこの地域で再処理されているともいわれています。プラスチック・金属・紙などの廃材が、分別・粉砕・洗浄・再販といった工程を経て、地域内で完結する「循環型経済」のモデルが形成されています。
また、ダラビでは再開発プロジェクトも進行中です。2004年に構想が始まり、2025年から本格的に着工されました。住宅・商業・産業機能を統合した新たな都市空間を整備する計画ですが、再開発に対しては住民の間でも賛否が分かれており、生活基盤を失うことへの不安や補償の不透明さを理由に反対する声も根強くあります。私が参加したダラビ観光ツアーのガイドの方は再開発に期待を寄せていましたが、隣人は慎重な姿勢を崩しませんでした。
この再開発が実現すれば、ムンバイの都市構造は大きく変わることになるでしょう。このように都市がダイナミックに変わっていくという点もインドの活力の一端であると感じます。もしムンバイを訪れる機会があれば、ぜひダラビツアーに参加してみてはいかがでしょうか。
どの国に赴任しても、食事面での制約はある程度避けられませんが、ムンバイも例外ではありません。ムンバイにおける日本人在住者は700人程度と限られており、日本食レストランの数も多くはありません。そのため、多くのインド進出企業では福利厚生の一環として「食料買い出し制度」が設けられており、日本からの食材送付費用の補助や、タイ・シンガポールなど近隣国への買い出し休暇を支援する制度が整備されています。
とはいえ、日常的に日本の食材やお菓子、特に子ども向けのおもちゃは手に入りにくいため、インド出張の際にこれらをお土産として持参すると、駐在員のご家庭からは非常に喜ばれることでしょう。本場のインド料理を存分に楽しめるのは、駐在生活の醍だい醐ご味みでもあります。カレー、ナン、ビリヤニ、タンドリーチキンといった日本でもおなじみの料理はもちろん、パニプリ、マサラパパド、ドーサといったスナックもお薦めです。さらに、ムンバイは海に面しているためシーフード料理が豊富で、中でもバターガーリックプラウンは絶品です。またムンバイから数時間の距離にあるSulaと呼ばれるブランドのワイナリーもあり、お土産として人気です。
ただし食事に関しては衛生面への注意が欠かせません。手洗いやティッシュの携帯を習慣づけること、信頼できるレストランを選ぶことなどでリスクは軽減できますが、時には原因不明の食あたりに見舞われることもあります。そんな時は「ファスティングの機会」と前向きに捉え、無理せず体を休めることが大切です。
グローバルサウスのリーダーとして世界から注目を集めているインドのGDPは、2025年に日本を抜いて世界第4位に浮上すると言われております。地政学的な重要性や人口ボーナス効果も相まって、今後も高い成長が期待されています。
一方で、実際の業務現場に目を向けると、期待値と現実の間には依然としてギャップが存在することも事実です。特に働き方においては、インド人と日本人の間に大きな価値観の違いがあると感じます。日本人から見ると「段取りが甘い」「スケジュール通りに進まない」と感じる場面が多くストレスの要因になることがあります。一方で、インド人から見れば「準備に時間をかけすぎている」「報告が多すぎる」と感じられることもあるでしょう。
このような違いを象徴する考え方として、「ジュガード(Jugaad)」という言葉があります。ヒンディー語で「機転を利かせた即席の解決法」や「限られた資源での創意工夫」を意味し、良くいえば柔軟で臨機応変、悪く言えばその場しのぎとも捉えられます。
インドで働いていると、予期せぬトラブルや遅延が頻発する環境下では、綿密な計画よりも「その場でどう対応するか」が成果を左右する場面が多く、ジュガード的な思考が合理的であることに気付かされます。ただしこの精神が「準備不足」や「責任回避」の言い訳として使われることもあるため、日本的な丁寧さや計画性を保ちつつ、両者の良いところをバランス良く使い分ける力が求められます。リーダーシップの在り方にもこの精神は表れており、綿密な計画を立てて実行するタイプよりも、現場で即断即決できる柔軟なマネージャーが評価される傾向があるように感じます。
ムンバイに限らず、インド全体で日々実感することですが、日常生活のあらゆる場面でデジタル化の恩恵を受けています。とりわけキャッシュレス決済の普及は著しく、街角の屋台から高級レストランに至るまで、QRコードを用いたUPI(統合決済インターフェース)による支払いがすっかり定着しています。現金を使う機会はほとんどなく、スマートフォン一つで日常の買い物が完結するのが当たり前になっています。また、配車サービスや食事・日用品の即時配送アプリも充実しており、注文から30分以内に玄関先へ届くことも珍しくありません。
こうしたデジタル社会を支えている象徴な仕組みが「アダールカード(Aadhaar Card)」です。これは顔写真や指紋、虹彩などの生体情報とひも付けられた12桁の個人識別番号で、銀行口座の開設、携帯電話の契約、公共サービスの利用など、幅広い本人確認の場面で活用されています。日本のマイナンバー制度と比較されることもありますが、インドでは成人の約99%が登録済みという圧倒的なカバレッジを達成しており、農村部を含めた全国規模での運用が進んでいる点は特筆すべきです。さらに、アダールを応用した技術の一例として、「Digi Yatra」と呼ばれる顔認証による国内線チェックインシステムも導入が進んでいます。空港での待ち時間を短縮するこの仕組みは、デジタル技術がインフラとして着実に根付いていることを示しており、“デジタル先進国インド”の姿を象徴する取り組みといえるでしょう。
インドはとにかくエネルギーに満ちあふれた国です。赴任して以来、「明日はきっと今日より良くなる」と信じる前向きな空気感が非常に心地良く感じられ、この空気感こそが人々の原動力となっていることを肌で実感しました。
残りの駐在期間中も、柔軟な姿勢と好奇心を持って、多様な文化を持つインドからさらに多くのことを吸収していきたいと思います。これからインドを訪れる方や駐在を控えている方にとって、本稿が少しでも参考になれば幸いです。