多様性と寛容「Diversity & Inclusion」の国、インド

インドJFE商事会社 取締役
米子 智裕

はじめに


私は、米国・シアトル、フィリピン・クラークに続く3ヵ国目の駐在地として、2019年9月にインド・ムンバイに赴任しました。1998年に一度だけ当地に出張した経験がありましたが、その時以来20年ぶりに今度は駐在することになり、昔に比べてどんな発展を遂げているのかなと想像しながら、ムンバイの空港に到着しました。

ムンバイに赴任してからの2年間は、コロナに翻弄(ほんろう)される生活でしたが、長い歴史のある当地、また、インド人と共に仕事をし、生活する上で感じたことも合わせて、ご紹介させていただきたいと思います。


ムンバイの紹介


筆者

ムンバイは、ポルトガルや英国の植民地になる前に呼ばれていた、地元の言葉(マラーティー語)での呼称で、昔の地名に戻す運動が発生した1995年に変更されました。16世紀からボンベイと呼ばれていたこともあり、今でもボンベイの方が名前の通りが良いように感じます。

ムンバイは、インドの商業および映画産業の中心地であり、インド準備銀行(中央銀行)やアジアで最初の証券取引所、ボンベイ証券取引所もある、インドにおける金融取引の中心地です。また、大手企業グループの本社や多国籍企業の拠点が置かれた商業の中心地であり、ボリウッドと呼ばれる映画産業の中心地でもあります。

インド経済に占める、ムンバイおよびマハラシュトラ州の割合は高く、ムンバイは2,000万人の人口を有しインド全国のGDPの5%、マハラシュトラ州は1億2,000万人の人口でGDP20%近くを占めています。

ムンバイは、1534年にこの地を地元の藩主から譲り受けたポルトガルが、ゴアの補助港として城塞(じょうさい)を築き、キリスト教会を建てた頃から西洋との関わりが始まりました。その後、1661年にポルトガルの王女が英国のチャールズ2世と結婚する際に、持参金として英国に移譲されたという、現代社会では想像できない歴史があります。東インド会社の拠点、また東インド会社の海軍(後のボンベイ海軍)の拠点ともなり、18世紀末にはインド西岸の海運や、貿易の要衝となっていました。当初七つの島に分かれていたボンベイは、1845年に計画された大規模な干拓により大陸と一体化しました。1837年にボンベイとスエズとの間に定期蒸気船航路が開設されると、ボンベイは欧州への玄関口となり、インド最大の貿易港として発展してきました。

20世紀初頭のボンベイ財界は、綿織物工業を基盤としたインド人資本家が多数存在し、ジャムシェトジー・タタが拠点としたのもボンベイでした。1903年にはタタにより、タージマハル・ホテル(Taj Mahal Palace & Tower)が建設され、世界有数の高級ホテルとなりました。現在でも、インドの大手企業、Tata Group、Godrej Group、Reliance Groupは本社をムンバイに置いています。

インド門:Gateway of India

英国領インド帝国時代にボンベイに建てられたインド門は、ジョージ5世とメアリー王妃が1911年にインドを訪問したことを記念して建立され、1924年に完成しています。

当時、著名人はインド門側の桟橋に上陸していたため、ボンベイへの上陸者が最初に目にする、英国の「権力と威厳」を象徴する建造物であり、インドの独立時には最後の英国軍が帰還式でインド門を通り、英国による統治の終焉(しゅうえん)を示した儀式も行われた、英国植民地時代を象徴する建造物です。

その桟橋は、現在ではエレファンタ石窟寺院(Elephanta Caves:ユネスコ世界遺産の文化遺産、1987年、ID244)のあるエレファンタ島行きフェリーの船着き場になっています。

インド門の横には、タージマハル・ホテルが、アラビア海に面して美しい姿で立っています。

タージマハル・ホテルは、英国植民地時代の1903年に開業したインドを代表する高級ホテルで、エリザベス女王、オバマ元大統領、ジョン・レノンも滞在しています。週末にレストランを利用することがありますが、コロナ期間であったこともあり、旅行者よりもムンバイの富裕層の家族連れや女性グループが食事をする姿が目立っていました。ホテル内には、ブランド品や宝石の店もあり、ムンバイの富裕層の生活を垣間見ることができます。


インド門(Gateway of India)


タージマハル・ホテル


ムンバイの教会


ムンバイには西洋との関わりが始まった16世紀に建立された教会が幾つか残っています。旧市街の北側に位置するバンドラ・ウェストには、マウントメアリー大聖堂(Mount Mary Church)があります。最初の小礼拝所(Oratory)は1570年に建てられ、現在の建物は英国植民地時代、1904年に再建された大聖堂(Minor Basilica)で、海沿いの丘の上に美しい姿を残しています。

チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス

1887年に約10年の建設期間を経て完成した、チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス(旧Victoria Terminus:ユネスコ世界遺産の文化遺産、2004年、ID945)は、ムンバイ近郊鉄道、長距離鉄道を合わせて18のプラットフォームを擁する、壮麗で豪奢(ごうしゃ)なムンバイの玄関口にふさわしい駅舎です。

ドービーガートと高層マンション


ドービーガート

ムンバイには、洗濯で生計を立てている人々が住んでいる地域があります。

洗濯も手洗い、ドラム式大型洗濯機、ジーンズ専門、白衣専門など不思議な世界が広がっています。その後ろには、富裕層の住む高層マンションが見え、インド生活の縮図が垣間見えます。


コロナ下におけるムンバイでの気晴らし


Willingdon Sports Club

ムンバイの中心部にWillingdon Sports Club(WSC)があります。このクラブは、今から100年以上前にさかのぼる1917年に、当初から欧州人とインド人が加入できるクラブとして設立されました。現在では、インド人のメンバーは世襲でしか入会できない格式の高いクラブです。名前はスポーツクラブとなっていますが、会員同伴で利用可能なレストラン、バー、ゴルフ、テニス、スカッシュの他に、小規模のガーデンパーティーもできるような施設があるクラブです。立地も旧市街の古くからの富裕層が住むエリアに近く、食事やお茶も含めて富裕層の人々が日常的に利用している様子が見て取れます。レストランもフォーマル、セミフォーマルと複数あり、夕食時には盛装したカップルや友人たちと食事する姿が見られて、WSCが生活の一部になっているのが感じられます。

最近、WSC設立100周年を記念して発刊された記念誌は、「The Home」と名付けられており、数世代にわたって加入しているインド人メンバーにとっては、まさに「Home」なのかもしれません。

ムンバイはゴルフ環境が悪く、近隣のゴルフ場はWSCの他にもう1コースしかないので、われわれ駐在員ゴルファーにとっても、WSCはまさに「Home」となっています。

WSCは、Par3が通常4ホールのところ9ホールあるPar65と短いゴルフ場ですが、知れば知るほど難しく感じるコースです。ショートホールに特徴があり、グリーンがほぼ見えない、池越えのショートホールが3ホール連続しており、慣れるまではボールを幾つも池に落とすことになります。極め付きは、ゴルファーラウンジと呼ばれるテラスの目の前にある、一番短くて簡単なショートホール、最終18番ホールです。先に上がった仲間がゴルファーラウンジから見つめる中、ラウンジの前のグリーンに向かいプレーすることになります。ラウンジでは後から来る仲間のプレーを酒のつまみに各組ワイワイ飲むのが恒例になっています。WSCには、総領事をはじめ、主だった会社の幹部クラスが多く参加していることもあり、新任者にとっては交友を広げる貴重な場にもなっています。


当社の関わり


当社は、前身の川鉄商事時代の1965年に鉄鉱石の対日輸出のためにゴア駐在員事務所を開設して以来、インドとの関係が続いており、2007年には法人化しています。

インドで感じたこと

インドは、約14億に迫る人口を背景に経済発展が続いており、世界経済の中で占める地位も、徐々に上がってきています。実際に住んでいると、人口構成の若さを感じ、人々の生活やインフラが向上していく勢いを日々感じています。そんなインドの状況の一部を紹介させていただきます。

言語

インドの紙幣に載っている言語は17言語もあります。また、ケーブルテレビの映画においても、English、Hindi、Marathi、Bengali、Telugu、Tamil、Kannada、Gujarati、Odia、Malayalam、Punjabiなど、複数の言語が選択できます。

休日

インド国内の各地域(支店)によって休日が異なります。各宗教の重要な日や、全国・各地域の祝日から、地域ごとに年間休日数が同じになるように決めています。

言葉の多様性

母国語が国中の隅々まで通じる環境の日本からすると、言葉の多様性はなかなか想像ができないと思います。普段接しているビジネスの関係者とは英語でコミュニケーションを取れますが、警察官を含め公務員やデリバリーの配達員とのコミュニケーションには苦労します。言葉以外でも感じる多様性は幾つかあります。

人種の多様性

インド人には、ペルシャ系、アフリカ系、アジア系など多様なルーツを持つ人々がいます。宗教も違えば食べ物も違います。そんな人たちが、互いの多様性を尊重し合い、同じインド人として暮らしています。

食事の多様性

社内でスタッフも交えて食事しようとすると、これはかなり大変です。大きく分けると、ベジ、ノンベジですが、そのほかにイスラム、ハラルなどあり、レストランを選ぶ際は非常に苦労します。会社での昼食は、弁当を持参するスタッフが多いです。19世紀から続く、ムンバイの自宅から事務所への弁当配達のシステムは有名で、宗教や出身地などのさまざまな理由に加え、食事に制限があることも背景にあります。

また、若いインド人男性はほぼ間違いなく自炊ができず、屋台を含めた外食が多いのも特徴です。一方、ムンバイの日本人単身赴任者は、自炊の腕を磨いています。アジアの他の国と違い、ムンバイには日本と同等レベルの日本食レストランがないため、自宅での自炊の機会が多く、豚の角煮の作り方や弁当のおかずの仕込み方法、空心菜やもやしの購入場所をお酒の席で情報交換しています。結構な人数の単身者が、外食やデリバリーに飽きて、昼食難民からの脱出のため、昼食の弁当を自ら作り持参しています。最近はスマートフォンでレシピの検索も簡単にできるので重宝しています。

インドの治安は比較的良いと感じています。率直に申し上げると、過去に駐在していた米国やフィリピンと比較して、街を歩いていても暴力的な怖さは感じません。当社の社員が街中で財布をなくしたことがありますが、翌日Starbucksの店員から店の前に落ちていたと電話があり、中身は現金も含めて全て無事でした。

最後に

インドは、「自らを主張しながらも、他人を尊重する寛容な国」と私は感じています。人種や文化、言語など、お互いが多様性を受け入れる素晴らしい国。日々良い刺激を受けつつ、世界第2位の人口を誇る同国の経済発展を肌で感じて、これからも取引を増やすことでインドの発展に貢献していきたいと思います。

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