CSRとグローバル経営

Japan CCaSS Leader Climate Change and Sustainability Services EY
牛島 慶一

はじめに

CSR という言葉が日本に取り入れられてはや 15 年ほどが経過する。しかしながら、いまだに CSR という言葉が社会貢献的な意味合いで用いられ、経営やビジネスとは異なる領域として認識されることも少なくない。言葉の意味を多少理解していたとしても、 CSR を哲学や精神的なものとして捉え、実態をつかみきれずにいる人も多いだろう。多くの企業は CSR の波に乗り社内に CSR 部門を創設したものの、コンプライアンスについてはコンプライアンス部が、環境課題は環境部が、サプライチェーンマネジメントは調達部が、人権については人事部が担っており、広範に及ぶ CSR の課題のうち差し引き残る社会貢献を CSR 部に担当させた結果、社内で CSR(という言葉)= CSR 部が担っている社会貢献といった、本来の意味合いとは異なる解釈が定着してしまったように感じる。日本企業では、新たな課題が生まれるたびに、それに対応する部門が次々とできる。このようにできたサイロは統合的思考を難しくし、視野の狭い人材を育ててしまう。

一方、新しい兆候もある。CSR に携わる人には比較的女性が多い。製造や会計といった伝統的な部門に比べて新しい領域であり、かつ社会性も高いことが要因と考えられる。また、若い世代を引き付けている分野でもある。日本の大企業内には、バブル以前の世代とそれ以降の世代での価値観の違いがある。
バブルを謳歌した世代にとって成功者といえば、多く稼いだ人や出世した人である。他方、就職難や大震災を経験した若い世代にとっては、広く社会に貢献している生き方を格好いいと感じる人も多い。また、この世代は日本に職がなかった時代に海外の大学院などで学んでいるケースも多く、国際的な視点や大学院で CSR を学んでいる世代でもある。古き男性が築いた社会構造に風穴を開けられるかは、こうした人たちの強いリーダーシップにかかっているといえよう。

法的責任と社会的責任

企業には、法的責任と社会的責任がある。法的責任とは、文字通り法律上の負うべき責任で、時に国家権力による制裁がある。ただし、合法だからといって全て正しいとは限らない。昨今の不祥事等の記者会見においても、「法的に問題があるとまではいえない」や「法に従って適切に対処している」といったコメントを耳にすることがある。ここで問題にしているのは法的責任ではなく道義的責任(社会的責任)である。企業は、いくら法的に問題がなくても世論と共感できなければ、市場から排除されることがある。IT で世界がつながった今、全てを隠し通す事は不可能である。「法的に問題なければ、自分に責任はない」と考える企業はまだ多い。法が自分を守ってくれるといった考えよりも、世論を味方に自分の身は自分で守る姿勢が重要になる。CSR とは、こうした経営の根幹となるトップの倫理観と、それを定着させる健全なガバナンスがあってこそ、機能するものである。

グローバルになれない日本企業

グローバルにビジネスを行う上では、より一層、社会的責任の自覚が重要になる。なぜならば、法律やその執行は国・地域によって異なるからである。まして腐敗の進んだ国・地域や人治国家では、法はあってないようなものだ。こうした国・地域では、非合法な行為も国家公認であれば合法となってしまう。このようなケースにおいて、いくら合法性を主張したところで、問題が解決されることはない。しかし日本企業においては、国家のお墨付きがあればよし、といった感覚がある。そもそも日本では、中小企業保護の観点から法律やルールがミニマムレベルとなる傾向があり、守れる法律がほとんどである。例えば、多くの日本人は日本の食の安全は世界最高だと思っているだろうが、実際の日本の農産物や加工食品などの安全管理基準は、零細農家保護の観点から国際的に大きく後れを取っている。日本基準が世界で先進的といった神話はもはやない。また、日本において法的な解釈に疑問が生じた場合、監督官庁に問い合わせることも多い。欧米などでは、法律の解釈の違いは裁判で話し合われる。日本では、自分の頭で考えず、他人に判断してもらう習慣が染み付いている。善悪の判断も、自分の倫理観に照らすのではなく、法律が判断してくれる。もし、その法律に誤りがあれば、それはその国の政府の問題だといった解釈だ。ある意味、楽なやり方だが、これでは倫理観は育たない。自律・自立できない人や企業は、グローバルにリーダーシップを発揮することはできない。

もう一つの日本企業の特性として、横並び意識がある。「他社はやっているの ? 他社がやっていないものを、なぜ当社がやらなければならないのか」、日本企業の社内でよく耳にする言葉だ。護送船団時代の癖が抜けずにいる。グローバル先進企業の意思決定はこの逆で、「他社がまだやっていないのなら、当社は今のうちにやろう」だ。グローバル先進企業のこうした姿勢は、CSR においても同様だ。「ルールになる前にやる」、いや「自分がロールモデルになり、ルールとなる」だ。市民社会が成熟している他の先進国では、企業の社会的責任に対する市民の監視の目が厳しい。もし企業の利益が環境破壊や人権侵害の上に成り立っていることが判明すれば、市民団体はすぐさま不買運動などによって企業のイメージや販売にダメージを与える。こうした経験からグローバル先進企業は、(1)多様なステークホルダーと良好な関係を築くことが自社の経済合理性にかなうこと、(2)逆にステークホルダーに配慮しない経営は将来の経営の制約要件をつくってしまうことを学んでいる。気候変動や人権侵害についても、今の利益に直結しないからといって犠牲にしていては、将来のビジネスの制約をつくってしまい、結果として自分の首を絞めることになる。賢い企業はこれを理解しており、批判的なステークホルダーをもあらかじめ巻き込み、協働で持続的な事業を開発し、それを業界の標準としてしまうのだ。

CSRが新たな市場ルールに

世界のリーダーはセクターを超えてサステナビリティや CSR を議論している。ダボス会議(World Economic Forum)などはその例だ。また、欧米の有名な経営大学院でも、将来の経営者のために CSR やサステナビリティを教え始めている。いわば、CSR やサステナビリティを議論できなければ、世界のリーダーとはいえない。こうしたリーダーは、新たな世界の枠組みをつくろうとしている。しかし、残念ながらこうした国際舞台に日本の存在感はほとんどない。国際会議で日本人がリーダーシップを発揮することはまれだ。従って、世界では日本抜きに物事が決まる。それを日本では、世界が勝手にルールを決めて押し付けていると感じている。

CSR とは、法律を超えた企業の自主的な活動だと言いつつも、従来は CSR の領域と考えられていた課題に対しても、法的規制が始まっている。環境については、EU の WEEE や RoHS 指令が有名だが、人権に関しても、2010 年に米国で制定された金融規制改革法(通称ドット・フランク法)や、 2012 年に施行された同じく米国カリフォルニア州のサプライチェーン透明性法、2016 年に施行された英国の現代奴隷法など、次々と制定されている。こうした近年の法律に共通することは、企業の開示を規制していることだ。法的には、中身がなくても(基準通りに)開示さえしていれば要件を満たすことになる。しかし、市民社会はこれを許すはずがない。取り組みや説明が不十分な企業には、圧力をかけてくる。つまり、政府は企業に説明責任を負わせ、市民社会に警察の役割を担わせることで、不誠実な企業を市場から排除し、健全な市場メカニズムを構築しようとしている。

また、TPP(環太平洋パートナーシップ協定)交渉においても重要なポイントがある。それは人権の項目が入ったことだ。TPP のコンセプトには、自由、民主主義、法治、人権といった基本的価値観を共有する国々での商圏をつくることにある。いわば、こうした基本的価値観を共有できない国とは自由なビジネスを行わないといった、ある種の参入障壁である。EU においても同様のことがいえる。EU では、2000 年 3 月に採択されたリスボン戦略以降、CSR やサステナビリティを競争ルールにする動きが加速している。2010 年発表の EU 新戦略「欧州 2020」では、Smart、Sustainability、Inclusive をキーワードに経済成長を目指しており、企業の社会課題への取り組みを通じてイノベーションを起こし、企業と社会の持続可能性、さらには競争力強化に結び付けようとしている。 2015 年の EU 会計指令の改正はこうした流れの一環だ。同指令改正では、EU 域内の公共性の高い企業(一般には上場企業や金融機関等を指す)に、環境、労働、人権といった非財務情報と、取締役の多様性に関する方針の開示を義務付けている。社会と対話できない企業(例えば CSR やサステナビリティを経営課題として取り組んでいない企業など)は、その地域で操業する資格を失うことになる。技術の発展や新興国の量産体制等により機能や価格にあまり差が生まれなくなった昨今、「誰がどのようにつくったか」といった背後にあるプロセスやストーリーが健全かつ持続可能であるか、また、それらが社会や環境に価値を生むかが、新たな差別化要素となりつつある。

日本企業がグローバル経営を実践するには

では、日本企業はいかにこうしたグローバルな潮流に乗り、競争優位性を構築するか。正直、日本企業が真のグローバル経営を実践するには、しばらく時間がかかるように思う。会社が外資に買収されるか、世代交代するか、そのくらい悲観的だ。私の考える日本企業におけるグローバル経営とは、日本で育まれた強みや価値観を大事にしながらも、最初から世界地図を見て経営することを指す。多くの日本企業においては、国内売上高と海外売上高、国内事業部と海外事業部、日本人社員と外国人社員といった、日本か海外かの二つに分けて考えている。また、物事を進めるに当たっても、まず日本の本社で考え、最初に日本で展開し、次にそれを海外へ持っていくというように、日本を基準にしたオペレーションが多い。これではいつまでたってもグローバル経営にはならないだろう。

そうした中でも、グローバル経営に一歩でも近づく重要な取り組みはある。一つは多様性を促進することだ。私たちが相手にするグローバル市場は多様だ。日本で生まれ育った日本人男性を中心に意思決定された製品やサービスが、昨今のグローバルの多様なニーズに応えられるだろうか。多様な社会に対応するには、あらかじめ多様性を経営の意思決定に取り込み、生かすことが必要だ。

二つ目は、明確なビジョンを持ち、自社が創造している価値を強く認識することだ。多様性を統合するには、共通の目的やゴールが必要だ。スポーツにおいても、世界中から優秀な選手を集めたところで、明確なビジョンと優れた戦略がなければ試合には勝てない。これと同じである。しかし日本では、理念やビジョンは建て前として、実際の行動や経営判断は理念やビジョンに関係なく行うことがある。こうした言動不一致は、社員や外部のステークホルダーの信用を裏切ることになる。また、経営の目的は必ずしも利益ではない。利益は結果である。重要なことは、どのような価値交換の結果として利益を上げたかである。この提供価値を見失わないことが、持続可能な経営にとっては大事になる。

三つ目は透明性の拡大だ。日本では「出る杭くいは打たれる」が、世界では「出る杭」にならなければ、存在しないも同然である。また、開示しなければ怪しいとさえ思われる。ここ 1 - 2 年、日本においてもようやく ESG 投資が盛んになりつつあるといったニュースを耳にするが、少し前までは、「投資家から ESG について聞かれたことがない」と言われていた。一方、当時の海外の投資家からは「日本の情報がない」と言われていた。聞かれないから情報発信しないのか、情報発信がないから聞かれないのか、どちらにしても、コミュニケーションは成立していない。

この 3 点は、世界のグローバル企業に比べて日本企業が決定的に遅れている点である。これと CSR とはどのような関係があるのか、と考える人もいるだろう。CSR とは、 Society に対して Response する Ability、つまり企業の社会に対する対応力と解釈できる。自社は多様なステークホルダーの期待に応えられる能力を備えているか。多様性の中で透明性を高め、自社の社会における存在意義をステークホルダーと共有していくことで、CSR を軸としたグローバル経営は可能になる。

真のグローバル経営に向けて

戦後 70 余年を越え、さまざまな価値観が表に吹き出し、世界の秩序が変わろうとしている。バブル世代が学んだ経営学も、今や古いものとなった。ネットで人やモノがつながり、リアルタイムに情報が世界を駆け巡るようになった分、個人の影響力は増し、企業や政府は世界中から監視されるようになった。仕組みが再構築されようとする中、これまでの仕組みにしがみつくのではなく、新しい仕組みを自分から創造していくことが大切だ。日本企業が世界に貢献できる余地はまだまだ大きい。次世代のグローバル経営を日本から発信すべく、積極的に世界と対話し、多くのステークホルダーからの支持を集める CSR 経営を実践してほしい。

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