インド経済の現状と展望

株式会社日本総合研究所
理事
藤井 英彦

1. はじめに


2012年10月、IMFは本年インドの実質経済成長率予測を 4.9%に引き下げた。4月は6.9%、2011年9月は7.5%だったから、半年で▲2.0%、1 年で▲2.6%の引き下げだ。7%成長なら、主要各国の中で中国に次ぐ高成長国だ。しかし、4.9%成長では6%台の成長を続けるインドネシアや 5%成長のタイ、ベトナム、6%成長のペルーやアンゴラなど多くの新興諸国の後こう塵じんを拝し、中成長国の1つにすぎない。
加えて先行き不透明感の増大を映じたルピー安だ。2011年8月初の1ドル44ルピー割れを最高値に下落が続き、2012年6月には1ドル57ルピーまで低下した。経済外要因も作用した。例えば相次ぐ汚職事件への反対運動、2011年末の外資参入規制緩和をめぐる迷走、2012年春の地方選挙での与党敗北だ。
とりわけウタルプラデシュ州議会選挙は大きな注目を集めた。与党の次期リーダーと目され、同州を選挙区とするラフル・ガンディー下院議員が積極的な選挙活動を展開したからだ。地方選挙とはいえ、与党が勝利すれば再び政府が求心力を確保し、市場開放や規制緩和など経済成長に欠かせない構造改革が進むとの期待もあった。
しかし与党は地滑り的敗北を喫した。2014年に見込まれる次回総選挙の行方も混こん沌とんとし始めた。このところ高まっているインド経済に対する先行き不透明感は単なる景気問題ではない。構造改革の行方、さらに政治や社会情勢を含めた懸念が根底にある。一部で指摘される通り、やはりインドは眠れる獅子なのか。本稿では、まず景気の現状を整理した上で、中期的な同国経済の行方を展望してみた。


2. 景気持ち直しの兆し


2012年4-6月期の実質経済成長率は前年比5.5%だった。2010年1-3月期の11.2%、2011年1-3月期の9.2%をピークに期を追って急速に鈍化し、成長ペースは半減した。先行き一段の減速は不可避との見方も台頭した。
しかし、それらは原数に基づく前年比の議論だ。同国の場合、総じて統計数値は原数で公表されるが、原数に季節調整を施し、季節変動を除去することは可能だ。前年比でなく、前月比や前期比で限界的な景気の変化を見てみよう。
まず実質経済成長率を前期比年率で見ると、ボトムは2011年7-9月期の4.7%だ。その後、10-12月期5.5%、2012年1-3月期5.8%、4-6 月期5.6%と成長ペースは 5%台後半に持ち直している。期を追って成長ペースが減速した前年比と異なる情景が広がる。
次いで成長率に対する産業別寄与度を見ると、第3次産業、とりわけ運輸・通信業が最大のけん引役だ。近年の通信業は携帯電話の飛躍的拡大に支えられてきた。携帯電話の契約件数は2011年に入り増勢が鈍化しているから、景気持ち直しは運輸セクターが主役だ。
旅客は勢趨(すうせい)的増加が続く。一方、このところ大きく増えたのが貨物輸送だ。内訳を見ると、鉄道は2011年夏、ウタルプラデシュ州を中心に発生した連続事故で落ち込んだ後、10月から回復に向かった。船舶貨物は2012年4月から増勢に転じている。
原動力は輸出の底入れだ。さらに今後、輸出は増加に向かう公算が大きい。為替安が価格競争力を強めるからだ。もっとも効果は即時的ではない。各国の経緯を見ると、通貨安から輸出増までのラグは総じて1年から1年強だ。時間をかけて増加する点に着目してJカーブ効果と呼称される。Jを時計回りに45度、横に寝かせると、左からゆっくり上昇した後、右端にピークが来る。
インドでも前回のルピー安は2008年春から始まり、2009年央から輸出数量が増えた。1年強のラグだ。今回ルピー安は2011年8月から始動した。過去の経験則に照らすと、早ければ2012年秋口、遅くとも2013年初には輸出が増加に向かおう。
GDPや物流以外で全体の景況を示す指標として、電力需要や通貨供給量がある。電力は 2012 年春、増勢を回復した。通貨供給量も年初までの増勢鈍化から、民間向け貸出をけん引役に2012年春以来増勢が加速している。さらにさまざまな統計指標の中で最も早く景況を示す鉱工業生産を見ると、2012年4月をボトムに増勢回復の兆しが見られる。財別に見るとバラツキがあり、今回の生産増は生産財がけん引役だ。とりわけ石油製品や鉄鋼、セメントが好調だ。2012年入り後の設備投資増というGDPの変化とも整合的だ。


3. 中期的展望


以上のようにみると、少なくとも短期的にみる限り、インド経済は景気底入れから本格的な回復軌道への復帰をうかがう状況にある。それでは今後数年を展望して、同国経済の行方をどのようにみればよいか。
そこで、近年における新興国経済の成長メカニズムをあらためて整理してみると、主力エンジンとして、①賃金をはじめ強いコスト競争力、②豊富な労働力、③都市化、の3点が指摘されよう。概説すれば次の通りだ。
まずコスト競争力だ。資本や技術に国境の壁が取り払われた今日、より生産コストの低いエリアでの立地が事業成功の要諦だ。新興国でも事業コストが上昇すれば生産移転の動きが始まる。昨年(2011年)来のミャンマー・ブームの背景には敬けい虔けんな仏教徒が多く、文盲が極めて少なく、勤労意欲が旺盛などさまざまな要素があるものの、根底には同国のコスト競争力がある。
次は豊富な労働力だ。生産増加や高成長に労働力制約は最大の障壁だ。とりわけ細かな作業ができて体力旺盛な若年労働力がポイントだ。労働力制約が強まれば生産拡大が難しくなるばかりでなく、需給逼ひっ迫ぱくから賃金上昇に拍車が掛かり、コスト競争力が低下する。失業率が既往最低水準まで低下したタイやベトナム、あるいは中国沿海部が典型だ。単なる生産・輸出増では高成長を維持できず、産業の高度化や製品の高付加価値化など、成長路線の転換が不可避となる。
最後に都市化だ。どれほどコスト競争力があり、労働力が豊富でも都市化が進まず、農業従事者が主体の国に高成長は無縁だ。戦後わが国の高度成長も、太平洋ベルト地帯への労働移動が豊富な労働力と消費市場を生み出し、東名高速道路や新幹線、オフィスや住宅など、さまざまな都市インフラの整備・拡充を通じて投資主導型成長が実現された。以上3つの観点からみてインド経済は厳しいとの見方もあるが、どうか。
まずコスト競争力だ。デリーやムンバイの賃金水準は上海や広州など中国沿海部の主要都市に比肩、あるいは駕凌(りょうが)する水準に達する一方、不動産価格でもムンバイには東京銀座の一等地を上回る物件がある。一見、すでにインドはコスト競争力を喪失しているかにみえる。しかし地方圏に目を転じ、例えばグジャラート州を見ると、アーメダバードの賃金水準はミャンマーのヤンゴン並みだ。さらに近年、グジャラート州やカルナタカ州など地方圏の成長ペースがデリーやムンバイなど都市圏を凌駕し始めている。都市圏の高コストは購買力や消費市場の視点から評価すべきであり、インドのコスト競争力では台頭著しい地方圏に着目すべきだ。
次いで豊富な労働力だ。インドは一人っ子政策を採らず、今後数十年にわたり若年層を中心に人口増加が続く。一方、生活習慣病が多く、総じて寿命が長くない。21世紀半ばまで人口ボーナスを享受できる数少ない国の1つだ。もっとも、総人口だけがポイントではない。東南アジア各国は典型的な新興国型経済成長を遂げてきたが、成長し始めたばかりのミャンマーと2.4億人と人口規模が大きいインドネシア以外、近年、曲がり角を迎え始めた。労働需給の逼迫が主因だ。数千万の総人口なのに農業が引き続き基幹産業の1つで、産業間の労働力移転が必ずしも活発でないからだ。それに対してインドの人口は桁外れに大きい。東南アジア各国や中国沿海部のような労働需給の逼迫に直面する懸念は小さい。
最後に都市化だ。インドにはデリー、ムンバイ、チェンナイ、コルカタの4都市で構成されるいわゆる、黄金の四角形があり、各州には長い伝統を誇る有力都市が多数所在する。2000年代半ば以降、中央政府、地方政府とも都市インフラの整備を重点政策と位置付け、積極的に推進してきたが、いまだ道半ばだ。言い換えれば、投資案件が全土にわたって山積みだ。
一部では投資効果も出始めた。例えば上記貨物取扱量を主要港別に対比すると、このところ従来と異なる動きが看取される。すなわち同国で長らく最大の貨物取扱量だったムンバイ港や対岸のナバシェバ港、いわゆるムンバイ・エリアの取扱量が弱含むなど、同国主要港湾では貨物取扱量に陰りが広がる。一方、グジャラート州カンドラ港やタミル・ナドゥ州エンノール港、ビハール州パラディプ港など、新規投資や拡張整備が行われた港湾の貨物取扱量が増加してきた。さらに近年の港湾整備では、アクセス交通網の充実や工業団地の新設も並行されるケースが大半だ。投資誘発効果が拡大し、生産や雇用の増加が促進され、内外資本の投資が進む。


4. おわりに


以上を要すれば、中期的にみてインドは高成長を支える要素を備えている。資金がなければインフラ不足は深刻な成長制約要因だが、資金があれば高成長のけん引役だ。さらに9月半ば、懸案だった外資の参入規制が小売業や航空業で緩和され、着実に構造改革も進んでいる。経済成長と所得の増加が課題の克服に役立とう。
それではインド経済に死角はないか。まず当面の懸念材料は食料品を中心とする物価動向だ。貧困層がいまだ多数を占める中、インフレは貧困層の生活苦を増幅させ、金融緩和を阻害し景気悪化に作用する。さらに中期的には税制や労働法制を含め構造改革を推し進めていく求心力を政府が保持できるか否かだ。英国BBC調査によれば、インドの人々の日本に対する信頼は各国中最も厚く、日本の人々もインドに対してとりわけ厚い信頼を寄せる。相互信頼に立脚した両国は21世紀型高度産業社会を構築する最良、最適のパートナーだ。日印関係の発展がインド高成長実現の鍵ではないか。

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