環太平洋経済連携協定(TPP)の交渉参加について

慶應義塾大学 経済学部 教授
東アジア・アセアン経済研究センター(ERIA) チーフエコノミスト
木村 福成

1. 日本のTPP交渉参加の意義


アベノミクスの要諦は、大胆に政策レジームを転換することによって、短期的には日本経済に対する市場の期待を大幅に改善し、同時に実効性のある中長期的成長戦略を策定・遂行するところにある。アベノミクスに対する評価はこれまでも今後もさまざまであり得ようが、当面これ以上の処方箋があるわけではない。副作用があろうとなかろうと、やれるところまでやってみるしかない。
日本のTPP交渉への参加は、日本では必ずしもはっきりと位置付けられていないが、海外からはアベノミクスの政策レジーム転換の一側面と見える。これまでの日本は、農業保護をめぐる国内政治で自らの手足を縛り上げ、戦略的な経済外交を十分に展開できなかった。日本はこの自らをおとしめる殻を今回こそ打ち破るのかもしれない、そういった予想が世界を駆け巡っている。日本は、海外から寄せられている強い期待を裏切ることなく、短期的にも中長期的にも期待を自己実現させるべく、大胆に前に進んでいかなくてはならない。
この政策レジーム転換と受け取られる動きは、東アジアとアジア太平洋、あるいは世界全体の経済統合の動向にも、大きな影響を与えつつある。TPPは、日本の交渉参加により、国際ルール作りの場となる可能性を一気に高めた。韓国、タイ、フィリピンなどもTPPへの参加を真剣に検討するだろう。この動きに触発されて、中国をはじめとする新興国・発展途上国も欧州連合(EU)も、広域FTAsによる仲間づくりにさらに積極的となりつつある。新興国・発展途上国の成長ダイナミズムを引き入れるには、それらの国を国際ルールの中に取り込んでいく必要がある。 今まさにその好機がやってきている。
米国は、自らの政治日程を念頭に置きながら、先月(2013年8月)の閣僚会合でTPPの早期妥結を強力に主張した。交渉を早くまとめるために10年を超える関税撤廃期限を認めるなど合意の質を下げてしまう危険性も指摘されているが、早期妥結を目指すのは基本的には良いことである。TPPが妥結に至れば、RCEP(東アジア地域包括的経済連携)、日中韓、日EU、米EUなどの多数国間FTAs交渉も加速され、自由化度は上がり、政策モードの包括性も高まる。そして、国際ルール作りに積極的でない新興国にいい意味での改革圧力をかけることになる。


2. TPPで達成できること


東アジアは製造業の国際的生産ネットワークが世界で最も発達している地域であり、その文脈での国際ルール作りも、生産工程あるいはタスクを単位とする国際分業をさらに活性化するところに重点が置かれている。しかしTPP交渉参加国には、メキシコを除く中南米諸国のように製造業の生産ネットワークにほとんど参加していない国もあるし、豪州、ニュージーランドなども製造業のリンクは弱い。米国にしても、自らの輸出振興とサービス産業の海外進出に関心があり、必ずしも製造業の生産ネットワークを優先して考えていない。TPPは東アジアの求めるものをどこまで達成できるのだろうか。
第1に、関税撤廃に関しては、これまで日本が締結してきたFTAsなどに比べればはるかに自由化度の高いところまで行ける。関税撤廃率は品目数ベースで95%を超え、一定の猶予期間が設定されるにせよ、最終的に98%近くの品目について関税をゼロにすることになるだろう。日本がすでにFTAsを締結しているマレーシア、ベトナムなどについても、さらに関税撤廃が進むことが期待される。
やや心配なのは、米国が、RCEPのように基本的に全ての締結国に共通の関税率表を作成するのではなく、相手国別に異なる関税率表でもよいとしていることである。これは、米国がすでにFTAsを締結している相手国とは再交渉を行わないというところから発しており、そもそもNAFTAも二国間FTAを束ねたものとなっているわけだが、これを全面的に許すと極めて複雑な関税体系をつくってしまう危険性がある。原理的には、12ヵ国であれば12×11=132の異なる関税率表が出来上がることになり、例えば、米国はA国には自動車分野を開放するがB国にはしない、といったことが可能となる。
また、原産地規則も相手国別にバラバラのものを作るのか。またそれはRCEPが多くの品目について採用するであろうco-equal system(付加価値基準と関税品目変更基準のどちらかを満たせばよいとするもの)のような使い勝手の良いものとなるのか。生産ネットワークを活性化するような累積ルールを作れるのか。いろいろ疑問が湧いてくる。
これらがきれいに整理されないと、いくら関税撤廃率が高くても、貿易は促進されにくい。特に、関税が長く残るであろう自動車などの場合に深刻な問題となり得る。生産ネットワークの円滑なオペレーションに関心のある日本は、少なくとも製造業品については原則、共通関税譲許・共通原産地規則方式を強力に主張すべきである。
第2に、サービス・投資の自由化は米国が特に熱心な分野である。ここでも締結国に共通の自由化約束となるのかどうかという問題もあるかもしれないが、米国が強力な交渉力を発揮してくれれば日本を利する部分も大きいだろう。特に、生産ネットワークを支えるサービス分野、例えば金融、電気通信、運輸、流通、専門家サービスの自由化が進めば、日本企業のオペレーションはさらにやりやすくなる。
第3に、知財保護、政府調達、競争政策、環境、紛争解決などの分野でも、一定の成果が期待できる。特に政府調達と競争政策は、日本企業のインフラ事業への進出に直接影響する分野であり、国有企業との公正な競争を実現する枠組みとしても重要である。マレーシア、ベトナムを説得するのはかなり難しいだろうが、将来的に中国を含む新興国向けに示す国際ルールとして、レベルの高いものを作っておくべきである。
今後交渉が進んでいけば、各分野の交渉についての情報も増えてきて、次第に全貌が見渡せるようになってくるだろう。日本としては、製造業を中心とする国際的生産ネットワークをさらに活性化する部分にプライオリティを置いて、各分野の交渉に臨んでいくべきである。
TPP交渉が前に進んでいけば、RCEP、日中韓FTA、日EU FTAの交渉における日本の立場も強くなる。一気に攻めに転じる好機である。RCEPは、ASEANが合理的に行動するならば、自由化度の低いASEAN+1 FTAsを束ねるのではなく、より高いものを実現しているASEAN自身の経済統合をベースとして、かなりの程度のモノ、サービス、投資の自由化を実現できるはずである。東アジアで展開されている生産ネットワーク全体をカバーしており、特に中国とインドがはいっていることは大きい。また日中韓FTAでは、自由化については低レベルの中韓FTAに合わせるのではなくRCEPと歩調を合わせ、同時に日韓で連携してルール作りへと戦略的に踏み込んでいくべきである。そうなってくれば、日EU FTA交渉でも多くを得ることができるだろう。


3. 農業保護の転換


農産品に関する関税を守ろうとすればするほど、他の分野における日本の交渉力は減退する。日本は、自動車関税について早々に米国に譲歩してしまったことから、しっかりと学ばねばならない。どうしても保護したいのであれば、関税等国境措置ではなく各種国内補助金による保護に切り替えるべきである。そうすることによって、TPPのみならずその他のFTA交渉においても、戦略的な行動のための自由度を大幅に確保できる。
農業を全面的に輸出産業とするのは無理だとしても、国際競争力強化の成功例をつくっていくことは重要である。直近はやや揺り戻しているとはいえ、円安は農業にとっても追い風である。まずは急いで保護方法の転換について道筋を示すところまでやって、あとはじっくりと10年かけて競争力強化に取り組めばいい。どのような時間枠組みの中で改革をデザインしなければならないのか、テンポの早い国際通商政策の足を引っ張らない形で手順を考えていくことが求められる。
農業改革は、GDP比でみればごく小さなものではあるが、アベノミクスの政策レジーム転換を象徴するものとなり得る。日本に対する内外の期待を裏付けることによって、日本は本当に変わっていける。これを機に、農業に関する国境措置撤廃という前世紀来の宿題を片付けよう。

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