ASEANにおけるグローバル化と イノベーション:ミクロデータ分析からの示唆

専修大学
経済学部教授
伊藤 恵子

ASEAN諸国は、1990年代末期の通貨・経済危機を経て、おおむね堅調に経済成長を続けてきた。その間、AFTA(ASEAN自由貿易地域)の枠組みの下で、貿易障壁の削減・撤廃が進められ、グローバリゼーションの恩恵を取り込みつつ、国内経済の発展を追求すべく各国が結束を強めてきた。
しかし、グローバリゼーションがどのようなメカニズムによって各国企業の成長を促し、さらには産業全体・一国経済の成長に寄与するのかは、まだ十分に解明されたとはいえない。ASEAN諸国において、グローバリゼーションが実際に経済成長に正の影響をもたらしているのか、各企業レベルでどのような影響を与えているのか、という疑問に対しては、まだ確定的な解が得られていない。
一方、経済学の実証研究分野においては、1990年代から企業や事業所レベルの大規模なデータベース(ミクロデータ(注1))を利用した研究が大きく進展し、ASEAN各国でも政府統計や民間調査会社の収集したミクロデータを利用した研究が活発になりつつある。
そこで、本稿では、グローバリゼーションとイノベーション(技術革新)との関係について、ASEAN諸国のミクロデータを利用して分析した研究結果をいくつか紹介し、グローバリゼーションがASEAN諸国の企業の研究開発(R&D)・イノベーション能力にどのような影響を与えているのかを議論したい。持続的な経済成長の源泉はイノベーション能力であり、ASEAN諸国が外資主導の経済成長から真に自律的な成長軌道に乗るためには、国内のイノベーション能力の向上が欠かせないと考えられるからである。


1. ASEAN諸国におけるR&Dの大きさ


ミクロデータによる研究結果について議論する前に、まず、ASEAN諸国のR&D活動について、マクロレベルで概観してみよう。表1は、ASEAN各国とその他の主要国におけるR&D活動の大きさ(注2)を見たものである。毎年のデータが取れる国は限られているため、時系列推移を読み取りづらい国も多いが、主に観察される点としては、1)シンガポールは突出してR&D集約度が高いが、他のASEAN諸国では、諸先進国の水準と比べて極めて低い、2)ASEAN主要国の中では、マレーシアが近年急速にR&Dを活発化させている、3)それ以外のASEAN諸国では、1990年代にR&D集約度が上昇したものの、2000年代に入ってからは停滞気味である。

表1の数値からは、グローバリゼーションの進展がASEAN諸国のイノベーションを推進しているようには感じられない。では、ミクロデータの分析からはどのような結果が出ているのであろうか。東アジア・アセアン経済研究センター(ERIA)では、筆者も参加してアジア各国のミクロデータ分析を進めている。以下では、ここでの成果を中心に紹介する。



2. ミクロデータの分析結果


ASEAN主要国で、最もミクロデータの整備と活用が進んでいるのはインドネシアであろう。インドネシアについては、個々の製造業企業に関する詳細な統計が毎年取られており、各企業の活動をさまざまな側面から時系列で分析することができる。従業者数30人以上の製造業企業(約2-3万社)について、1995-2006年の年次データからR&Dを行っている企業の割合を算出すると、その割合は5-9%の間で推移していた(注4)。同期間において、明確な上昇トレンドは確認できず、年によってその割合は変動している。
さらに、各企業が外資系企業であるか否か、輸出しているか否かなど、幾つかの企業属性ごとにR&D集約度を見ると、ほぼ全ての属性の企業において、R&D集約度は2000年代に入って低下していた(表2)。この背景には、1990年代末の通貨危機を経て、企業行動に構造的な変化があったことがあるかもしれない。例えば、通貨危機後に政策的介入は大幅に減り、外資の所有比率に対する規制も大きく緩和された。また、AFTAの下での貿易自由化が本格的に進展し、域内での競争も激化した。そうした中で、インドネシアはR&D集約的な財の生産に注力するよりも、低付加価値財の低コスト生産に特化した方が国際競争力を発揮できるという企業判断があったかもしれない。

より活発にR&Dを行うのは、どのような属性を持つ企業であろうか。多くの統計的分析では、R&D活動の有無、または、R&D活動を行っている場合、どれほどR&Dに資源を配分しているか(R&D集約度の大きさ)を説明する要因を特定する、ということが行われる。分析の結果、輸出企業はR&Dを行う傾向が確認できたが、外資系企業であることはR&D活動の有無に影響を与えていなかった。さらに、R&D集約度の大きさに対しては、輸出企業か外資系企業かといった属性による差異は確認できなかった。ただし、新規に設備投資を行った企業はR&Dをより多く行う傾向は見られた。これらの結果からは、国際化している企業がより多くの資源をR&D活動に配分しているとはいえない。また、インドネシアでのR&Dは、新設備を扱うために技術部隊を導入するといった、技術開発というよりも実際のオペレーションに近い活動であることが示唆される。さらに、近隣に外資系企業が多く立地する場合、国内企業のR&D活動が活発になるかどうかについても検証しているが(注5)、近隣の外資系企業からの影響は見いだされなかった。貿易自由化が進んだ産業に属する企業はR&Dを行う傾向があるものの、グローバリゼーションがR&D集約度を高めているとはいえない結果であった。
タイについても、外資系企業がよりR&Dを行う傾向は見られない(2006年データ)。ただし、外資系企業の割合が高い産業や、中間財貿易比率が高い産業(アジアにおける国際的な生産ネットワークに関連する度合いが高い産業)においては、R&D活動を行う企業の割合が高い。このことは、グローバリゼーションが進む産業で国内企業のR&D活動が促進されていることを示唆するが、R&D集約度とグローバリゼーションとの間には、明確な関係は見いだされなかった。
マレーシアに関しては、輸出企業であるか否か、または外資系企業であるか否か、といった属性がR&D支出や機械設備の取得に与える影響は確認されなかった。輸出企業においてはR&D活動のための教育訓練を行う傾向が強いことは見いだされたものの、教育訓練にかける費用の大きさについては、輸出企業がより大きいとはいえなかった。つまり、上述のインドネシアやタイと同様、マレーシアにおいても国際化企業でよりR&D集約度が高いとはいえないのである。

一方、ベトナムの中小企業データの分析結果によると(注6)、輸出企業や外資系企業への売上比率が高い企業、または外国との競争にさらされている企業で、新しいプロダクトまたはプロセスを導入する傾向が強かった(2007年、2009年のデータ)。ベトナムでも、グローバリゼーションは国内中小企業のR&D活動を促しているとはいえる。
このように、貿易自由化などによって外国企業との競争が促進されると、R&D活動を行う企業が増えるという傾向が統計的にも確認される(注7)。ただし、R&D集約度を高めるという傾向は見いだせず、グローバル化の進展によって、国内企業がより多くの資源をR&D活動に投入するようになるとは明言できない。また、輸出企業や外資系企業でR&D集約度が高いとはいえず、より多額の費用をかけてR&D活動を行う傾向にはない。さらに、タイについては、外資系であることは、R&D活動をしない傾向を高めるという結果である。ちなみに、中国においても同様の傾向が見られる。
しかし、生産性などのパフォーマンスを見ると、輸出企業や外資系企業は平均的企業よりも優れていることが上記の研究その他から確認されている。このことは、これらの企業はパフォーマンスが良いにもかかわらず、比較的少額なR&Dだけを行っていたり、またはR&D集約的でない生産活動へ特化することでパフォーマンスを上げていることを示唆する。

3.「中所得国のわな」

国際経済学の教科書で説明される通り、貿易自由化は比較優位産業への特化を進行させる。上記のような研究結果は、ASEANにおいて、国際化の進展している産業や企業は、R&D集約的でない生産に比較優位を持ち、こうした生産活動への特化を進めることによってパフォーマンスを上げていることを裏付けるものである。もちろん、このような動きは経済合理的であり、世界全体の貿易の利益を増加させる。しかし、個々の国レベルで見ると、貿易自由化が企業の行動を高度な技術・知識の獲得とは逆の方向に向かわせ、技術・知識やR&D人材の蓄積が促されない可能性がある。
このことは、「中所得国のわな」として近年、広く知られるようになってきている。安価な労働力を強みに輸出主導で中所得国化したアジア諸国が、先進国入りを前に成長が停滞することをいい、このわなを抜け出して先進国への仲間入りを果たすには、自律的なイノベーションが不可欠だという議論である。
マレーシアなどは、近年、この「わな」を意識し、研究開発や人材育成を重視し始めている。しかし、自律的イノベーションの推進に向けた動きはまだ十分とはいえず、先進国や北東アジア諸国との差は極めて大きい。表1に示したR&D集約度を見ても歴然とした差があるが、各国特許庁における特許許可数のデータからも、ASEAN諸国とその他主要国の違いは顕著である。
WIPO(世界知的所有権機関)の統計によ ると、ASEAN諸国でも特許許可数は増加傾向にあるが、ASEAN国内で許可を受けた特許の90%以上は非居住者によって申請されたものである。各国事情に差があるため単純比較はできないものの、日本と韓国では非居住者の特許許可数の割合がそれぞれ、13.8%と26.0%(2006-10年の平均値)であり、米国と中国ではそれぞれ、50.1%と48.5%(同)である。
ASEAN諸国は、「貧困のわな」からは抜け出しつつあるが、今度は「中所得国のわな」に備えて、次の政策手段を実行していかなければならない。貿易で得た利益を、国内のイノベーション推進に振り向けていくことが重要であろう。特に、国内の高度人材の育成は急務である。国内の人的資本の蓄積が進めば、外資系企業がASEAN諸国でのR&D活動を積極化することも期待される。

(注)
1 近年、「ビッグデータ」と呼ばれる大量のデータを活用するビジ ネスモデルなどが脚光を浴びているが、ここでは「ミクロデータ」という呼び方を採用する。企業や事業所レベルのデータは、通常、サンプル数が多く、「ビッグデータ」とも呼べるが、経済分析においては、「ミクロデータ」という呼称が一般的である。なぜなら、一国全体の経済変数を「マクロ」変数と呼ぶことに対し、企業や事業所の行動は「ミクロ」なレベルの経済行動として分析されるためである。
2 一国のR&D活動の大きさを測る際、通常は、その国の経済規模で標準化する(研究開発支出の対GDP比や、人口や全労働者数に対する研究者数など)。この標準化した研究開発の大きさを、「R&D集約度」と呼んでいる。
3 本稿で紹介する研究成果の詳細は、C. H. Hahn & D. Narjoko編 “Globalization and Innovation in East Asia”ERIA Research Project Report 2010, No.004に収録されている。同報告書は、ERIAのホームページからダウンロード可。
4 参考までに、日本の従業者数50人以上の製造業企業のうち、R&Dを行っている企業の割合はほぼ50%である。
5 近隣の外資系企業との取引関係や競争を通じて、技術的情報の交換が行われたり、国内企業のイノベーションへの意欲が高まれば、国内企業のR&D活動が増えると考えられる。これをスピルオーバー効果と呼んでいる。
6 ベトナムでの中小企業の定義は、資本金が100億ドンまたは従業者数300人未満の企業とのことである。2000年代、ベトナムでは中小企業数が年率20-30%の成長率で増加している。
7 フィリピンについても、貿易自由化の進展は企業間競争を促し、競争にさらされた企業でより活発にR&Dを行う傾向がある。

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