デジタル貿易ルールの展望 WTO有志国グループの 「共同声明」から考える

青山学院大学 地球社会共生学部 教授
岩田 伸人

はじめに

本年(2019年)に入って、「デジタル貿易」(Digital Trade)すなわちWTOで言う「電子商取引」(Electronic Commerce)のグローバルな共通ルール化に向けた動きが、特に日・米・EUなど主要先進国の間で活発化している。

「電子商取引」に比べて「デジタル貿易」はさらに広い範囲をカバーするなど、両者の定義には微妙な相違はあるとしても、現実を見ると、アゼベドWTO事務局長の発言記録でも、これら二つが併記されることが多くなったことから、本稿でも、両者を区別せずに用いる。

現在、WTOにおいてデジタル貿易の自由化に関わるのは、1998年に開催されたWTO閣僚会議で「電子的送信には関税を課さない」とする曖昧な取り決めのみである。しかもその有効期間は、次回の閣僚会議までの原則2年間であり(モラトリアム合意)、その都度に全会一致を得て継続されているにすぎない。つまりデジタル貿易の自由化について、WTO協定としての恒久的なルールは存在しない。

他方、GATTのウルグアイ・ラウンド当時(1986-94年)、デジタル貿易は、サービス貿易自由化交渉で区分されたサービス12分野の一つにすぎなかったのが、今や、国際貿易の発展に必要不可欠なインフラともなっている。

1. 電子商取引に関する共同声明

2019年1月23日、スイスのダボスで開催された世界経済フォーラムで、安倍首相は「信頼あるデジタル・データの越境移動の自由(data flee flow with trust:D.F.F.T)な体制を構築する」と表明し、個人データ(personal data)はこれに含まれないと付記した(2019年1月23日付「WorldEconomic Forum」)*1。

この首相発言に、主要先進国が目指すデジタル貿易の理想と、それに伴う問題点が凝縮されている。

その2日後の1月25日、同じ現地ダボスで開催されたWTO非公式閣僚級会合の直後に、米・EU(28ヵ国)・日・中・ロなどを含むWTO加盟の76ヵ国・地域による連名で、「電子商取引に関する共同声明」*2が出された*3。

共同声明の趣旨は、これまで非公式で行われていたデジタル貿易の自由化の議論を、今後はWTOの正式な交渉に格上げしたいというもので、これは主要なWTO加盟国(日・米・EUおよび中国やロシア)の総意のようにみえる。というのも、2013年から2016年末まで行われた新サービス貿易協定(Trade in Services Agreement)のための「TiSA交渉」(50ヵ国・地域)を経て、その中のデジタル貿易に絞った2018年3月から同12月まで開催されたWTO有志国会合(71ヵ国・地域)に至るまで、およそ5年間も費やされた上に、最終的には中国やロシアも声明文に名を連ねるに至ったからだ。

有志国会合をリードしてきた日・米・EUおよびニュージーランド、豪州の国々が目指すのは、WTO全加盟164ヵ国・地域に適用される多数国間(マルチ)のデジタル貿易自由化協定の形成にあるのは疑いがない。しかし、それには全加盟164ヵ国・地域のコンセンサス(全会一致)が必須となる。

2. デジタル貿易の中身

デジタル貿易(または電子商取引)という場合、郵便やFAXおよび電話や電子メールなど、いわゆる情報伝達の手段を指す場合と、コンピュータ・プログラム、文字データ、ビデオ、映像、録音物などのデジタル・コンテンツを指す場合とがある。後者は「デジタル・プロダクト:digital product」とも呼ばれる。ちなみに日本を含むTPP11の加盟国と米国は「デジタル・プロダクト」を用いているが、EUでは「データ:data」または「コンテンツ:contents」を用いることが多い。またデジタル・プロダクトが組み込まれたメディア媒体即ち、そのコンテンツを含む価額に対して、関税を課す国もあれば課さない国もある。

米国が締結した過去12件の地域貿易協定の中でデジタル・プロダクトの用語が初めて現れるのは、2001年12月発効の「米国-ヨルダンFTA」であるが、その中身が上記のように明示され始めたのは、2004年1月発効の「米国-チリFTA」からである。

送信されるデジタル・プロダクト自体は、無形のデータの集合体であり、税関を通過しないので当然、関税の議論にはなじまない。

WTOによれば、電子的に送信(配送)されるデジタル・プロダクトは、現時点では財(goods)なのか、サービス(services)なのか明確に分類されていないので、今後、財(goods)として分類されれば、GATT上の義務つまり関税が課されるべきか否かの議論になるとしている。

3. なぜデジタル貿易・電子商取引の自由化ルールが成立しないか

冒頭に記したようにWTOの全加盟164ヵ国・地域の間にはデジタル貿易自由化のための共通ルールがいまだ存在しない。そのため、先進国は、FTAやEPAの地域貿易協定の中で、デジタル貿易の地域的な自由化を拡大させてきた。例えば、TPP11の第14章(電子商取引)は、「締約国の間では電子的な送信(電子的に送信されるコンテンツを含む)に対して関税を課してはならない(shall not)」と定めている。

他方、自国内に有望なIT企業が存在せず、デジタル市場の国内法も未整備なLDCs(後発途上国)からすれば、デジタル貿易自由化を促すマルチのWTOルールが、もし発効すれば自国の国内市場が先進国の巨大IT企業に収奪されるのではないかという懸念がある。こうした状況が、WTO全加盟国のコンセンサス(全会一致)が得られない一因となっている。

Hillman(2018)*4は、第一に、原則あらゆるデータは国境を越えて自由に移動できるとする自由主義派(米国)、第二に、データは個人データとビジネス・データに区分し個人データの越境移動には規制が必要とする規制派(EU)、そして、第三に、データの自由移動は国家の利益(安全保障)を侵害しない範囲で認めるとする重商主義派(中国)、の三つの流れがあり、それぞれに電子商取引の自由度および政府介入の仕方は異なるとする。これらに加え、国際独禁法が存在しない中での、大手プラットフォーマーGAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)を抱える米国政府、および同様のIT企業を抱える中国政府の、いわゆる自国ファースト(自国優先主義)の風潮も、デジタル貿易自由化の共通ルールが成立し難い理由の一つといえる。

4. デジタル貿易自由化のための要件

WTOでは、「電子的送信には関税を課さない」ことをWTO閣僚会議の第2回(1998年)の会合で暫定的に取り決め(モラトリアム合意)、これを以降の閣僚会議のたびに、全会一致で追認してきた。

しかし主要先進国(日・米・EUなど)が目指すデジタル貿易の自由化ルールは、それだけで実現するものではない。

主要先進国の間では、少なくとも、(1)電子的送信への関税賦課の禁止、(2)デジタルデータの越境移動の自由、(3)コンピュータ設備の立地要求の禁止、(4)ソース・コードやアルゴリズムの開示要求禁止、(5)個人情報の保護、の5点は必須の事項という認識が共有されつつあるが、このうち「個人情報(personaldata)の保護」については日・米・EUおよび中国の間でも温度差がある。

EUのGDPR(一般データ保護規則:2018年発効)は、個人データのEU域外への移送は、当該域外国がEUのデータ保護規則と同等のルールを有している場合にのみ認めるとする*5。

これら5点に加えて、各国の解釈が異なる「セキュリティ」(安全保障)に関する共通ルールも必要になる。巨大IT企業を抱える米国は、民間企業のセキュリティ(企業機密情報の保護)を主張する一方、中国は、国家のセキュリティ(国家安全保障の確保)を優先する傾向にある。前者(米国)の解釈を優先すれば、企業の秘密データを開示せよと現地政府から要求されてもこれを拒否できるが、後者(中国)の解釈を優先すれば企業の秘密データさえも政府に提供せねばならなくなる。これら以外にも、人権が関わるデータ自体のセキュリティ(データ・セキュリティ)を確保すべきなどの議論がある。中国のサイバー・セキュリティ法にも同様の定めがある。

このように、国家の主導を前面に出す中国と、伝統的な資本主義市場経済をベースとする先進国(日・米・EU)の間では決定的な相違があるにもかかわらず、2019年1月25日の「共同声明」には、中国も名を連ねているのだ。これは何を意味するのであろうか。

5. 多数国間の支持(コンセンサス)は得られるか

WTOの場で正式なデジタル貿易自由化の交渉を開始するからには、有志国グループが共同声明文に「できるだけ多くのWTO加盟国」の参加を促すよう明記したのは当然としても、現実を見ると、WTOの多数派である途上国およびLDCs(後発途上国)の中でも意見が分かれており、WTO全加盟164ヵ国・地域によるマルチの交渉となるにはかなりの時間がかかりそうだ。

デジタル貿易自由化の共通ルール作りに消極的なインドや南アフリカ、およびLDCsを含む全ての途上国の参加を得るには、デジタル貿易の自由化の全体的なレベルを緩くするか、LDCsと途上国には自由化の履行に猶予期間を設けるなどの特例事項が考えられる。

自らも途上国である中国は、そのようなLDCs/途上国への特例事項の設置を支持するとしても、ディールを好む米国・トランプ政権は、そのような特例事項の設置をすぐには認めないだろう。

6. 今後の見通しと課題

WTOでは、特定分野の貿易自由化ルールとして発効済みのものは、次の三つである。

第一は、WTOの特定加盟国間だけで発効し、その適用もそれらの国々の間だけに限定される「政府調達協定」(GPA、1995年発効)。第二は、同じくWTOの特定加盟国間だけで発効した後に、その恩恵のみが全てのWTO加盟国にも適用(均てん)される「情報技術協定」(ITA、1997年発効)。第三は、WTOの全加盟国の間で発効し、その適用も全てのWTO加盟国が対象となる「貿易円滑化協定」(TFA、2017年発効)である。

主要先進国が目指すデジタル貿易自由化のための協定は、上記の中の貿易円滑化協定(TFA)タイプ、すなわちWTOの全加盟国の下で発効し、かつ全加盟国が適用の対象となる多数国間(マルチ)のタイプであるのは疑いがない。しかし、現実には中国・インドなどの新興大国を含む多くの途上国が、これを無条件に支持する可能性は極めて小さい。

他方で、インドのように、WTOの場ではデジタル貿易自由化の共通ルール化に反対しながら、自前の国内デジタル産業の育成を含めて自国内のデジタル市場の整備構築を進めている国々もある。最近のUNCTADの会合でもインドは、今のデジタル貿易の共通ルール化は時期尚早と述べている。インドは現在、EUのGDPR(一般データ保護規則)を事実上のモデルとするPDP法(個人データ保護法)の導入を進めている。PDP法によれば、個人データを収集する政府・企業・個人(=データ受託者)が、当該データを加工する際には、元の当該個人から事前の承諾を得る必要があると定める*6。

もしWTOでの多数国間交渉が正式にスタートしたとしても、協定の発効にGATT伝来のコンセンサス(全会一致)方式が必須の条件として堅持されるならば、米中間の利害対立とLDCs /途上国による時間稼ぎによって交渉は長期化して、ドーハ・ラウンドのように実質的な決裂となる可能性もある。もし交渉の決裂を避けたいという一点で全加盟国の思惑が一致するのであれば、デジタル貿易自由化ルールの水準を極度に低くしたものにならざるを得ない。それは例えばLDCs/途上国との駆け引きを経て、「電子的送信には関税を課さない」という暫定的な取り決めを、今後は恒久的な取り決め(ルール)とするだけで、交渉が妥結するシナリオである。

実際のところ、全世界の総人口約80億人のうちインターネット利用者の数は約40億人であり、残りの約40億人のインターネット未利用者はLDCs諸国を含む途上国に集中している。このことから、まずWTO加盟164ヵ国・地域の多数派を占めるLDCs/途上国の賛同を得るためには、日・米・EUなどの先進国および中国を含めたデジタル先進国による途上国開発のデジタルインフラ支援が望まれる。それにより、定義の難しさはあるが、世界全体の「安全保障」の強化に加え、デジタル情報へのアクセスが容易になることで人々の「豊かさ」も拡大するに違いない。

*1.https://www.weforum.org/agenda/2019/01/abe-speechtranscript/ [access:2019 年2月1日]
*2.WTO(25/January/2019)「JOINT STATEMENT ON ELECTRONIC COMMERCE」WT/L/1056
*3.https://www.meti.go.jp/press/2018/01/2019 01250 08/20190125008-3.pdf
*4.Hillman, Jonathan E., (13 April 2018)「The Global Battle for Digital Trade」CSIS
*5.EU のGDPR はEU28 ヵ国に加えてアイスランド、リヒテンシュタイン、ノルウェーの3ヵ国を加えた31 ヵ国が共有する個人データの保護ルール。
*6.インドPDP 法の「データ受諾者」(data fiduciary)は、EUのGDPRが定めるデータ管理者(data controller)に似ている。

岩田 伸人
青山学院大学 地球社会共生学部(ちきゅうしゃかいきょうせいがくぶ) 教授
熊本県出身。早稲田大学商学部卒業、同大学院修了。農学博士。
青山学院大学経営学部長・同大学院研究科長(2007-09年)、同大学WTO研究センター所長(2003-17年)を経て、2017年4月より現職。
日本貿易学会会長(2009-10年)、経団連21世紀政策研究所研究主幹(2010-11年)。
専門は、「国際貿易論」。

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