歴史の恩讐(おんしゅう)を超えた地中海の宝石 イスラエル

三菱商事株式会社 テルアビブ駐在事務所長
甲斐 隆史

百聞は一見にしかず


真綿のような白砂に腰掛ければ、遠く西方の地中海に溶けるように急ぎ姿を消していく太陽の柔らかい光が、群青色の空に扇形に広がるのが見える。絶え間なくたおやかに耳朶(じだ)を打つ波の音がその夕景の伴奏のように続く。一度でもテルアビブの夏を体験したことがあれば、類似した体験をした向きも多いはずである。百聞は一見にしかず、のまさに典型の街がテルアビブであり、イスラエルであると思う。自分自身がまだ当地で9ヵ月の逗留(とうりゅう)期間であるからよく分かるが、一般的に日本におけるイスラエルの印象は決して良いとはいえないわけである。絶え間なく繰り返されるパレスチナとの紛争と常に喧伝(けんでん)されるその独善性、傲岸(ごうがん)不遜に映る外交姿勢、何の根拠もない、あるいは何となく、のユダヤ人陰謀論(かつてはシオン賢者の議定書、今はユダヤマネーと枚挙にいとまがない)、シリアやガザへの情け容赦ない爆撃や侵攻、イランや周辺国との対峙(たいじ)の先鋭化、といったところか。さらにそれに加え、第2次世界大戦でのホロコーストの艱難(かんなん)辛苦や、中東のシリコンバレーとして新技術での台頭が近年著しい、という程度の認識ではないか。少なくとも弊員はそうであった。2019年2月に、約3年間滞在した前任地のトルコから当地に赴き、最初に意外であったのは、イスラエル人がとにかく陽気で人懐っこく、世話焼きで、その一方、少々大言壮語の気がある、弊員が生まれ育った懐かしいセピア色の大阪の街角を想起させる人たちが多い、ということであった。この元々の先入観は弊員が教科書や歴史書で学んだ反ユダヤ主義や、弱者たるパレスチナ寄りに立ったこれまでの多くの報道、さらには西暦73年のマサダ要塞(ようさい)陥落の後の苦難の歴史、すなわち、レコンキスタ、ポグロム、ホロコーストという幾星霜を経ても続く悲しみを背負い抱え込んだ人々なのだろう、と勝手に思い込んでいたが故である。赴任してものの半月もしないうちにこの観念が完全に転換された。冒頭の百聞うんぬんの感慨は、この実体験に由来している。

イスラエル概況


テルアビブマリーナにて(筆者)

イスラエルはガザ地区を除き国土の西部の全てが地中海に面した約2万2,000k㎡(日本を含め国際社会の大多数には承認されていない併合地を含む)、すなわち日本の四国と同程度の小国である。1948年建国の若い国で、弊員の両親よりも若い。建国当時は約80万人であった人口は71年の時を経て、10倍以上の約890万人となっている。出生率は3.11と高く、3人産んでもまだ平均以下ということだ。街を歩いていても、普通に5人、6人と子供を連れている者もいる。最初は親戚だと思っていたので、実子だと聞いて驚いたものである。イスラエルは周囲を敵に囲まれている(彼らは敵と言わず、unfriendlyneighborhoodと言うが)、という自覚から、数は力なりということで、イベリア半島系、ドイツ系、アフリカ系、旧ソ連系と世界中から移民を積極的に受け入れ、さらに産めよ殖やせよを国策としてきた。45歳までは出産、人工授精、出産手術・入院費用の全額免除、3歳から15歳までの学費は無償、という具体的施策を徹底して行っている。少子化の日本にも参考にする点はあるのかもしれない。

経済面でも力強い成長を見せている。2008年のリーマン・ショック以降、実質経済成長率が3%を下ったことはない。1人当たりGDPも4万ドルを超え、日本をはるかに凌駕(りょうが)する。そして、この小さな国に六千数百社ものスタートアップがうごめいている。老若男女入れて1,500人当たり1社以上存在する計算となるが、皆さんの出身校の同学年数やご近所の住民の数を基準に考えれば、いかにこの数値が多いか、が分かりやすいのかもしれない。毎年数百社が生まれ、数百社が消えていく「エコシステム」の中、2018年には約70億ドルの外国直接投資が当地のスタートアップやベンチャーキャピタルに注ぎ込まれる結果となっている。この国を称して「スタートアップ・ネーション」と言わしめるゆえんである。日本の一地方のような国に、この金額は驚異的と言ってよいであろう。

この地に住む人々


ベゴニアの花が咲くテルアビブの街角

言い古された感はあるが、イスラエル人と付き合っていると、「フツパ」と「バラガン」という二つのヘブライ語の単語にどうしても行き着くこととなる。その言葉の意味は文末に述べるが、人となりは、とにかくストレートなのが特徴で、時には、企業訪問で面談開始後20〜30分もすれば「お金を入れますか? それとも業務提携を求めているのでしょうか? どの分野でどのような形で協業したいのでしょう? 何ができるのですか?」と、立ち合い一気の寄りのスピードは軽量力士並みに極めて迅速である。そのたびごとに、少なくとも弊社として、拙速な判断を避けるその理由と、弊社や日本の歴史と信頼、数多くの投資実績に業界接地面積とその規模の話題を持ち出し、そう焦らないように、多少時間がかかることもあるが絶対にいろんな意味で裏切らないから、われわれの重量の意味を信じてほしい、と土俵中央付近に寄り返し、がっぷり組む、という作業が発生する。しかし、毎回これを繰り返しているうちに、先方の立ち合いも少しは読めるようになってきて、最近は何を考えているか分からぬよりよっぽど良かろう、という心境に至っている。

彼らは極端に無駄を嫌う傾向がある。また、上司への忖度(そんたく)や、いたずらな長幼の序という概念も、仕事を効率よく進める上で無駄であると判断した暁には、ちゅうちょなく切り捨てる。無能な上司は更迭してよい(われわれには肌感覚として意味が分からないが)、というほどの風情である。真偽は不明であるが、ユダヤ教は十戒のみならず、微に入り細をうがつ多数のおきてが存在し、その難解さが故、時にはユダヤ人に罰をも与える神との約束を正しく理解するため、聖職者を問い詰めてよい、という考え方がありそこからこの傾向は発したものだ、と知己のイスラエル人から耳にしたが、さもありなんと思っている。

日本でお客さま含め企業訪問をすると、工事現場、工場や倉庫等を除けば、オフィスは隅々まで本当に清潔であるケースが多い。こちらのスタートアップは本当にガレージを改良したようななり、あるいはそのままガレージで営業している、というところが本当に多い。それを恬(てん)として恥じることもなく、どうだ?ウチのガレージは? 水も勝手に飲んでいいぞ、と気にするそぶりもない。無駄なことを気にする時間と労力があるならまずは形にしてしまおうぜ、というのが大本の考え方であり、いわゆるどこかで聞いたことのある「やってみなはれ」を地でいくものである。グチャグチャのガレージや大学の研究室で上司や教授に対して、二十歳前後の若者が怒号を発し盾突きながら、ただし「形にする」というゴールへの思いは共有し、一番乗りになることを目標に一緒に開発しているからこそ、発想力に強い推進力が加わるのではないかと愚考する。その発想の視点を「out of box思考」と彼らは呼んでいる。一般的に、日本人は真面目に今あるビジネスや技術の質を向上させるのだ、という頑張る傾向がある。将棋でいえば皆が「歩」のようなものだ。一歩一歩着実に前進し「金」になることを目指す。一方で、彼らは常識を疑い、先人の偉業も乗り越えてのし上がりたいと発想する。それぞれが「桂馬」のような動きをし、いわゆるdisruptive(破壊的)な発想を行う。よって、内視鏡一つとっても、内視鏡の径をどれだけ小さくするか、という競争には参加せず、一気に飲み込めるカプセル型の内視鏡を開発する。あるいは、アンチドローンのシステム開発において、ドローンの侵入に対しそれを電波で妨害する、あるいは撃ち落とす、といった動的解決ではなく、そのままハッキングして降ろしてしまえばいいじゃないか、といった発想につながっていくことになる。33その一方、この厳しい砂漠の地で周囲に頼ることができない中、点滴かんがいに代表される農業技術で食糧を確保し、フィジカル・サイバーセキュリティ技術で自らの国を必死で守らざるを得なかったこの国と、天然資源に恵まれない中、世界で生き残りを懸けてJapanese Qualityを磨いてきたわが国とは、お互い真剣でリアルな「Dead or AliveTechnology」を研ぎ澄ませてきた者同士ともいえる。


嘆きの壁

よって、イスラエルとわが国は意外と多くの特徴を共に有し、一方で180度違う特徴で相互補完し得る、稀有(けう)な関係となり得る可能性を内包するものと愚考する。この可能性を信じ、彼らのスピード感を活かし、また、その技術の信頼性を見極めつつ、当地の成長の取り込みを、「焦らず急ぎ」行っていくことが、日系企業にとって、今、必要なことであろう。

なお、先の「フツパ」の日本語の対訳は、直截(ちょくさい)的、、オープンでマイペース、厚かましさ、唯我独尊、他人の評価を気にしないということになるし、「バラガン」は著しい混沌(こんとん)、すさまじく散らかっている様を表している。この二つの単語に彼らの思考の発射台は収斂(しゅうれん)しよう。ただ、それだけ聞いていると妙にギラギラした自分勝手なやつらばかり、と思われるかもしれないが、一方で傲慢(ごうまん)不遜に見えて実は結構周囲の評価を気にする人も多く、イスラエル最高だろう?と聞いてきて、弊員がアッサリと是と返答すると、若干不安げに「本当に本当か? 具体的にはどの辺が?」と急に詳しく聞いてくるあたりは、随分チャーミングなのもいるものだと思うことも間々ある。

カラフルな国土と食文化


ゴラン高原の至宝ヤルデン

イスラエルの魅力という観点からは、文頭に述べた美しい地中海の海岸線の魅力は論をまたないが、もちろんそれだけではない。三つの宗教の聖地であり、嘆きの壁、岩のドーム、聖墳墓教会、キリストの死刑判決から処刑場までをたどるヴィア・ドロローサを有し、それぞれの宗教、人種が肩を寄せ合って共生するエルサレム。聖誕の地、ベツレヘム。2,000年近くにわたるディアスポラの出発点であるマサダ要塞とネゲブ砂漠。色とりどりの熱帯魚が悠然と目の前を通り過ぎる紅海の街、エイラット。まさに死んだような幽玄な静寂に包まれた世界唯一無二の死海。キリストが初代ローマ教皇となるペトロに声を掛け、湖上を歩いたとされるガリラヤ湖と枚挙にいとまがない。


当事務所のスタッフと(右が筆者)

観光地のみではない。食事やワインである。当地の食料自給率は90%を超え、日本人もなじみ深いマイクロトマトは当地発祥であるが、当地での食事はカテゴリーとしては地中海料理となる。モロッコからの卵料理シャクシューカ、中東全域で食べるゴマとひよこ豆のペーストであるフムス、ギリシャの島辺りから来たのか、タコのグリルといった風情で、さすがは世界中から人々が集まってきた国であることよ、と食事の際に毎回その感慨を新たにする。ワインについては、5大シャトーの一角たるラフィット・ロートシルト、ムートン・ロートシルトはその名の通り、ロスチャイルド系(ロートシルトはロスチャイルドのフランス読み)のユダヤ人によって保有されている経緯もあり、イスラエルのワイン造りの歴史はこのユダヤ人脈を活かした形で19世紀にまでさかのぼる。最近ではゴラン高原のトップブランド「ヤルデン」が当地や欧州ではもちろん、日本でも左党の一部にもてはやされている。寒暖差があり、肥えた土壌という南欧の環境に似たことと、これまたユダヤ人脈を活かしたカリフォルニアからの技術移転等もあり、南フランスやカリフォルニアのように厚みのある果実味を持ったワインが好みの方には、特に人気である。日本でも入手は可能である由なるも、当地でその歴史にも思いを致しつつぜひ試していただければ、と思う。

最後に

ユダヤ人というidentityを共有できる移民は積極的に受け入れ、宗教的にも多様性を尊重し、ユダヤ人国家を守護する強い国造りを国家基本設計の背骨とし、小さい国土と市場は実証実験の場とでも開き直り、最初から海外に活路を見いだすという指針を早急に定めたイスラエル。そのための人材育成の観点から、小学生からプログラミング教育を行い、学校では飛び級を奨励、軍隊では精鋭部隊へエリートが集まる仕組みを構築、また、法制面でもスタートアップフレンドリーな優遇税制を整え、不退転の決意でこの百年に一度の技術革新の荒波に挑戦している。

地離れて人なく、人離れて事なし。故に人事を論ぜんと欲せば、まず地理を観よ、とある通り、この国を感じ、ここに住む人々を知り、そしていかなることが起こっているか、ぜひ自らの目で見て感じる機会をつくっていただければ、と思う。大きく変革する産業構造、ビジネスモデルと収益源泉のその先にある日本の未来に対し、当地ネゲブ砂漠における一握の砂のごとく微細であるかもしれぬが、いかに微小であろうとも貢献できるよう、弊員も当地で一生懸命に活動してまいりたいと思っている。皆さまのお越しを鶴首してお待ちいたしております。

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