ムーラムーラの島国

住友商事株式会社 アンタナナリボ事務所長一杉 直治
所長付有山 暢之
所長付谷 央輔

豊かな自然と多様な固有種(担当 一杉)


マダガスカルの国土は日本の約1.6倍、世界で4番目に大きい島である。人口は約2千5百万人、10世紀ごろに丸木舟でボルネオ島の辺りから渡って来たとされるマレー系と、アフリカ大陸の奴隷が起源とされる黒人系が融合したらしい。少し黒みを帯びた目で小柄なアジア系の人を町でよく見掛ける。言葉もマレー・ポリネシア語派に属しインドネシア語との共通点が多くあり、性格は概しておとなしく、内向的で会議では意見をはっきり言わないため、日本人とよく似ているともいわれる。

主食はお米で1人当たり年間平均120kg食べるといわれ、現在の日本人の実に約2倍である。ラマザバと呼ばれるお肉と野菜を煮付けたシチューのようなスープをかけて食べるのがこの国の郷土料理である。先日、日本へ遠征に行くラグビーの女子ナショナルチームの壮行会を行ったが、若いアスリートたちはお皿いっぱいにお米をテンコ盛りにして満面の笑みを見せてくれた。


左から、有山所長付、一杉所長、谷

マダガスカルがアフリカ大陸から地殻変動で離れインドと地続きだったのが1億3千万年前、さらにインドと離れて現在のアフリカ大陸のそばに戻ったのが9千万年前とされている。そのため、動物・植物共に90%以上が固有種であるとされている。時折、静止画像のように動きを止めるカメレオンのうち世界の3分の2の種が生息するらしいが、大型の蛇・ワニなどの爬虫類(はちゅう)やライオン・ヒョウなどの肉食獣の天敵がいないために生き残ったといわれている。バオバブの木は世界で8種のうちの6種がマダガスカルの固有種だそうだが、ある意味、マダガスカル人自身も固有種といえるかもしれない。実際、マダガスカル人は自分たちをアフリカ人だとは考えていない。

マダガスカルの1人当たりのGDPは約400ドル、最貧国である。石油・石炭をはじめ化石燃料が豊富だが、国内輸送手段が未整備のため、開発が遅れ、全量を輸入に頼っている。庶民の日々の煮炊きは山から切り出したまきや炭を使っている。伝統的な焼畑農法に加え、不法伐採の影響を受け国土の90%がはげ山状態になっているのは、生活のため、やむなしなのだろうか? 経済発展の妨げになっている要因としては、毎年襲ってくるペスト、サイクロンの被害に加え、5年ごとに政権が入れ替わることも一因かもしれない。この国の象徴である「タビビトの木」も固有種だが、皮肉にも瀕死(ひんし)の経営状態にある国営航空会社「エアマダガスカル」のロゴに使われている。この国が豊かな資源と固有種たちと共に世界に飛翔する日が来ることを願ってやまない。


ラグビー女子ナショナルチーム壮行会の様子


首都を出てしばらく走ると広がる景色


未電化生活と幸せなマダガスカル人(担当 谷)


電化率16%。これはマダガスカルの全国電化率であり、アフリカ大陸の平均25%をさらに下回っている。この指標を聞いて、皆さんはどのような生活を思い浮かべるだろうか。この国には、電気のない生活を当たり前のものとして暮らす人々が多くいる。

実は首都アンタナナリボに暮らしていると、この国のリアルな電力事情を実感する機会は少ない。停電は発生するものの、居住区によっては自家用電源を備えており、照明・空調・インターネット等々が基本的に不自由なく使用可能である。

ところが、一歩首都を出ると、途端に景色が一変する。

車でしばらく走れば、そこに広がるのは赤土の山と大草原。窓の景色から電線が見えなくなる。ケーブルが地中に埋まっているはずもなく、そこが、未電化地域であることは、一目瞭然である。比較的大きな町に近づくと電線が現れては、また消えていく。町と町の間に点在する村々に電線はなく、家庭用の太陽光パネルをたまに見掛ける程度である。

夕暮れを過ぎると、走行時の頼りは車のヘッドライトのみ。たまに行き交う対向車のヘッドライトが、片方しか点灯していないことを想像いただきたい。行き交うこちらは、ヒヤヒヤする。

なお、電気に限らず、この国では各種インフラ整備が進んでいない。道路の整備も行き届いておらず、デコボコ道が続くと、実際の移動距離に対して、移動時間も想定以上にかかるものだ。地方を早朝に出発しても首都に帰り着くのは日が暮れた後、そんな車の旅を経験すればこそ、首都に近づき、街灯や家々の明かりを見た時には感動を覚えるものである。なるほど、ここは大都会だ、と。

先日、生まれも育ちも首都アンタナナリボという同国スタッフと遠方に地方出張した際、彼女にとっても、目的地は未知の世界という様子で、携帯電話はつながるのか(ネットが使えるエリアは限られ、使用できる場合も電波が弱くテレビ電話などは不可能に近い)、道路の状況はどうか、不安がっている様子を見て、それほど都市と地方の暮らしぶりの差は大きいのだと、改めて実感した。

電化の担い手としては、国営企業のJIRAMA(マダガスカル電力・水供給会社)が電気関係の公共設備を担当しているものの、なかなか思うように進んでいない。

その他、民間セクターも地方に大規模な太陽光パネルを設置し、電力販売等を試みているが、地方では主に自給農業(次の収穫時期まで家族が食いつなぐ分だけを栽培し、販売などは行わない)で生活する人々が多く、現金収入が少ないため、そもそも電気を買うことが難しい面もあるようだ。

さて、そんなこちらの生活だが、悪いことばかりではない。首都とはいえ、外には最低限の明かりしかなく、自然と早寝早起きの習慣になる。毎朝6時になると、朝日と鳥のさえずりで目が覚め、夕方17時には日の入りとなり、鳥たちが巣に戻ると、辺りは真っ暗になる。「人間らしい」というか、健康的な生活を送れているように感じている。

活動するのは明るいうち、日が沈めば辺りは真っ暗。太陽の動きと共にある規則的な生活リズムは、地方に行くほど、はっきりしている。首都暮らしの私が、その暮らしぶりを語るのはおこがましいが、何度か地方の生活を目にすると、そこに住む人々に悲壮感はなく、その日一日をのんびりと過ごしているようにみえるのだ。この国にはムーラムーラ(ゆっくりゆっくり)という言葉があるが、まさに「ムーラムーラ」を地でいく、幸せな生活を送っているようにみえ、ふと、それと対極にあるような日本の生活に思いを馳せた。


地方でも少しずつ太陽光パネルの普及が進んでいる


マダガスカルの夕暮れ


歴史が結ぶ二つの島国(担当 有山)


マダガスカルと日本はいずれも大陸の東側に位置する大海に浮かぶ島国であるが、それぞれ全く異なる歴史を歩んできた。マダガスカル人の祖先はインドネシア方面から船で渡り着いた人々といわれており、他のアフリカ諸国と比べインドネシアとの共通点を見いだすことができるが(例えば吹き矢やアウトリガー付きカヌーなど)、日本と直接的な結び付きを顕著に示すものはない。日本の歴史の中にマダガスカルが登場するのは20世紀になってからであり、一つは日露戦争、もう一つは第2次世界大戦の時代である。まずは日露戦争という舞台に登場していただこう。

日露戦争を描いた小説といえば、司馬遼太郎の「坂の上の雲」が有名であるが、この中に日本海海戦に向かうロシア・バルチック艦隊がマダガスカルで燃料や水・食糧の補給を行ったとの記述がある。現在マダガスカル有数のリゾート地となっている北西部のノシベで補給を受けたというのが通説であり、小説でもそう記されているが、これには異説がある。

バルチック艦隊はまず補給のためノシベに寄航するが、その目的を果たすことができずマダガスカル最北端のディエゴ・スアレス港への移動を余儀なくされ、ここでようやく補給を受けることができた、というものである。長期間足止めさせられたバルチック艦隊の中で乗組員は栄養不足や熱帯病で多くの犠牲者を出し戦闘意欲を著しく低下させていった。この時ディエゴ・スアレスに住んでいた一人の日本商人が戦艦の種類や数、艦隊が積み込んだ燃料や水、食糧の量をひそかに調査し、在ボンベイ日本領事館に電報で伝えた。これがバルチック艦隊の動静を把握する貴重な情報になったといわれている。

この人物こそ、熊本天草出身の当時32歳の赤崎伝三郎である。100年以上も前にマダガスカルに日本人が住んでいたとは驚きである。なお日露戦争終結後、同氏には、日本帝国海軍から感謝状が贈られた。赤崎は29歳の時、家業が失敗し、その借金を返済するため長崎に向かい、ここでフランス人の下でコックとしての道を歩み始めた。しかしこの給金だけでは十分に食べていけず、職を求めて上海、香港、サイゴンに向かい、最後にマダガスカルにたどり着いた。彼はマダガスカルでレストラン、ホテル、映画館などを経営し成功を収め、四半世紀後故郷である天草の土を再び踏んでいる。

話を第2次世界大戦に移そう。舞台は再びディエゴ・スアレス(1975年に町名がアンツィラナナに変わった)。ディエゴ・スアレスにはフランス植民地時代以降、そして独立後もフランス海軍の基地が置かれた。湾は天然の良湾として知られ、ブラジルのリオに次いで世界で2番目に大きな湾といわれている。第2次大戦勃発後、フランスに枢軸国派のヴィシー政権が誕生した。マダガスカル現地政府もヴィシー政府側に立つこととなったのに伴い、この軍港も本来なら、連合国側から奪還し、枢軸国側の制圧下に置く必要があったが、当時、ドイツ海軍にはインド洋にまで艦隊を派遣する余裕はなかった。

1942年5月、ヴィシー政権から要請を受けた日本帝国海軍はマダガスカルにイ号潜水艦を派遣、潜水艦から発進した特殊潜航艇が、ディエゴ・スアレス港に停泊していた英国海軍艦隊を攻撃しタンカー1隻を撃沈、戦艦1隻を大破させた。この作戦で特殊潜航艇乗組員の秋枝三郎中佐と竹本正巳特務少尉の2人が上陸、英国軍兵士と交戦した末に戦死した。またこの作戦には岩瀬勝輔少尉と高田高三2等兵曹も参加し共に戦死した。ディエゴ・スアレスには「特潜四勇士」の慰霊碑が日本によってアンツィラナナ市大学病院敷地内に建てられ、現地の人により維持管理されている。この厚意に対し日本国大使館より病院改修の支援がなされている。故郷の土を再び踏むことなく、はるか彼の地で命果てた4人の若者の無念さを思う時、冥福を祈らずにはおられない。
(上記4人の階級は資料により異なる)


慰霊施設の様子


「特潜四勇士」慰霊碑

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