海河のほとりにて―天津雑感―

HANWA TRADING(SHANGHAI)CO.,LTD.
TIANJIN BRANCH
所長 米原 佳彦

暑い…今年の夏は日本も異常気象でしたが、ここ天津もかつての天津では思いもよらぬ、連日35度を超える猛暑と猛烈な湿気の日々です(2018年8月3日現在)。

かつての天津は4月末から5月に一度猛暑を迎え一度すっと気温が落ち着くのですが、また7月に蒸し暑い日々を迎えます。それが7月末から8月にかけて気温は高くても湿度の低いカラッとした気候に変わり国慶節を境に一気に冬へと向かうのが常でしたが、この数年の異常気象はやはり地球温暖化の影響なのでしょうか。

さて、天津は中国に四つある直轄市の一つとして名を知られていますが、場所を確実に把握できている日本人はどれほどいらっしゃるでしょうか?

今日は機会をいただいたので、天津をいろいろな角度からご紹介してみたいと思います。

天津は中国沿岸部を華北・華東・華南に分けると華北地区に属します。

地理的には北京の南東140kmほどに位置し、渤海湾を東に望み、緯度は秋田県とほぼ同じです。面積は1万1,916.85㎢(秋田県より少し大きくて新潟県より少し小さい)、人口1,547万人(2015年)の縦に細長い都市です。天津市は北京市と並んで河北省を代表する都市で、時期的な違いはあれ両市とも河北省の首都であった時代があります。

旧市街区と濱海新区の二つの大都会を軸に、北には河北省北部から天津北部を通り北京に向かって東西に山脈が連なり、その中には盤山という名山があります。その南には豊かな自然に恵まれた広大な郊外区が天津の市街地まで広がり、また旧市街地の南にも団泊湖などの美しい自然が広がっています。

河北省秦皇島の山海関に始まる大長城は上記の山脈の上に沿って造られており、天津には黄崖関という長城登攀(とうはん)の拠点があります。

今や高級別荘地区と化した感のある市内東部の七里海では江蘇省の陽澄湖に劣らぬモクズガニが秋になると出回り各家の食卓を彩ります。

天津の名は、明の時代に永楽帝が北京からかつて白河と呼ばれた今の海河を渡河して南下した後、即位したことから「天子の渡った津」との意味を込めて付けられ、その後、北京を守る街として「天津衛」と呼ばれました。

1856年に始まった第2次アヘン戦争では、英国は北京の円明園の宝物を大量に持ち去り、今なお大英博物館に展示しています。円明園は廃虚のまま略奪の記念碑として残されています。1900年には、山東省にあったドイツの教会の焼き打ちに端を発し、一時は北京と天津の間を席巻した義和団事変に反発した8ヵ国連合軍は、渤海湾の要衝、大沽の砲台を一気に攻め落として天津を拠点に北京占領を果たしました。

これらの歴史を経て20世紀初頭には9ヵ国(英・米・仏・独・墺・伊・露・日・ベルギー)が天津に租界をつくり、北京の外港として、また当時の中国では最も西洋的近代化が進んだ街として発展しました。

近代産業では天津から始まった産業は多く、自転車の「飛鳩」や腕時計の「海鴎」は今に残るブランド品です。軽工業品のみではなく、化学産業や鉄鋼産業も集積し日本企業も多く進出しました。今も残る企業も本をただせば日系だったという企業は数あります。

19歳の周恩来が東京に留学し1年半滞在していたことをご存じでしょうか?

青年周恩来は今の天津南開大学の前身の中学校を首席で卒業後、日本の第一高等学校と東京高等師範学校を受験するも失敗、明治大学政治経済科などで学び、知日派としてのベースをつくりました。ちょうど歴史の転換点で日本との間に不平等条約を結ばされた時代のただ中に東京にいた彼は苦しみます。そして彼は中国に戻り、その後の大宰相への道を歩み始めます。その日記は(既に絶版ですが)日本でも出版されました。彼の真面目でしかも広大な視野は天津時代に培われたことがその日記を読んでもよく分かります。そう、天津は南開大学と天津大学の2校をはじめとする学術の街であり、学生の街でもあるのです。

また、清朝滅亡後、しばらく紫禁城に残ることを許されていたラストエンペラー愛新覚羅溥儀は、1924年に紫禁城を出ることとなり日本軍の手引きもあり正妻の婉容と共に天津に移り住みます。


溥儀夫婦の住んだ静園、溥儀たちにはこの時代が一番幸せだった

その後、日本のかいらい国家である満州国皇帝として長春に移り住み激動の時代を迎える直前までの数年、二人は静かで豊かな時間を天津で過ごしました。天津で二人が住んだ日本租界にある張園と静園は見事に再建され、かつての雰囲気を今に伝えています。

ここで蜜月時代の二人はおしゃれをして出掛け、ダンスを踊り過ごしていたのです。

その後、長春へ移って以降の悲惨な二人の未来を知るにつけ、今目の前に見るその建物たちの穏やかなたたずまいからは、より深い別の陰影が浮かび上がってくるのです。

戦後は1950年代に直轄市となりました。北京のすぐ隣の直轄市、という位置付けがかえってあだとなり発展が遅れたという側面がありましたが、今となってはそれが天津に「一つの市に9つの租界」という他に例を見ない観光遺産を残す結果となり「禍福は糾える縄の如し」の言葉そのままに、北京や上海がなくした古い建物をほぼ完璧な形で残し、大きな観光資源となっています。

ほぼ完璧に残っているのは、九つのうち、英国、イタリア、オーストリア、米国租界、若干残っているのがドイツ、日本で、フランス、ロシア、ベルギーの租界はほとんど跡をとどめていませんが、今や街を西北から南東へ曲がりくねりながら流れる海河沿いのプロムナードとともに市民の憩いの場となり観光客の集まる場所となっています。

イタリア風景街に隣接して天津城市計画展示館があり、2時間も中を回れば天津の過去から近未来を立体模型とともに学ぶことができます。

わたしはその中でも一番美しいといわれる英国租界の中の五大道という区画に住んでいます。英国租界は租界の中で最も広大でそれは海河沿いのビジネス街(上海の外灘の少し小型版を想像してください)と、五大道を中心とする居住区街に分かれています。

このビジネス街の方は英国風の重厚な高層建築が立ち並びますが、居住区である五大道は低層で「その道の方々」からは歴史建築博物館と呼ばれるほどに、その時代の各国の建築様式の建物が立ち並び、建築の分からない人の目さえ楽しませてくれます。

その中には当時の首領たちが天津に来ると宿泊した和平賓館があり、門の外に掛けられた名簿を見れば、そうそうたる方々が宿泊したことを知ることができます。

その区画の中に和平賓館の別館として「潤園」という平屋の建物があります。ここはかつて租界時代の五大道でも唯一プールを併設した別荘風の建物で、泳ぐのが好きな毛沢東の天津での居所だった所として有名です(今はプールはありません)。

和平賓館のすぐそばにある睦南公園は英国式の公園でしたが、今は春から秋にかけて入れ替わり咲き続けるチャイナローズ(中国名:月季花)が人々を和ませてくれます。夕暮れにおじいさんが胡弓を弾く音を聞きながら月季花の咲き乱れるこの公園を歩くのは何物にも代え難いゆっくりした時間です。

この五大道の現在の中心は民園広場という公園ですが、ここは1920年代に中国で初めてできた西洋式の運動場で、何度か造り直されていますが、3代目は天津のプロサッカーチームのホームグラウンドでした。

ところが、北京オリンピックの時には天津郊外に広大なサッカー場が造られたためにこの民園運動場は一時取り残された形で寂れましたが、五大道の中国を代表する観光地認定5Aの評価獲得を目指す天津市政府の手によって、数年前に4代目に建て替えられ一躍五大道の拠点となり、市民や観光客の憩いの場としての地位を取り戻しています。


社宅のあるビル夜景


英国租界跡夜景


春の五大道 海棠花が満開!


睦南公園のチャイナローズ(月季花)


五大道の大藤! 藤棚ではない!


海河の遊覧船から見た夕暮れの天津


天津市域で五つの河川を合わせて流れる海河には昼夜を問わず遊覧船が走り、その上に数多く架かる橋は古いものは150年の歴史を数え、幾つもの橋がその造られた時代とその時代のいろいろなデザインで目の前に現れる様は大変美しく、ぜひお勧めしたい景色で、特にライトアップした街を船で橋を潜り抜けていく楽しさは、ぜひとも楽しんでいただきたいものの一つです。

さて天津名物で飛び抜けて有名なのは、「狗不理」包子と「十八街麻花」(小麦粉を練って油で揚げた菓子)でしょうか。

「狗不理」包子は来歴を知らないでその字面だけを読むと「犬も食わない」となりますが、これには物語があります。かつて天津に南の小籠包と北の肉饅の良いところを合わせた包子を作ろうとがんばっていた幼名「小狗(こいぬちゃん)」と呼ばれた青年がいました。彼はその後、夢を実現し、名もない小さな店がお客が引きも切らない大繁盛となったのですが、そんな時に遊びに来た昔の悪ガキ時代の友人たちが「小狗! 遊ぼうぜ!」と呼び掛けても彼は振り向きもしません。悪ガキたちは黙々と包子を作り続ける小狗を見て、「小狗のやろう、俺たちを無視しやがる! どうせならこの名もない店の名を『言うことを聞かない小狗』=『狗不理』にしちまえ!」となって今の名になったとのこと。これは今でも「狗不理」に行くと快板(中国式カスタネット)のリズムに乗って説明を聞くことができます。

初代の中華民国総統となった袁世凱が天津の北洋政府の総督時代にこの狗不理包子の大得意となり、たまたま行啓してきた西太后におそれながらと勧めたところ「これはおいしい!」と言ったのがきっかけで全国に名がとどろいたという尾ひれも快板のリズムに乗せて聞くことができます。

天津人は朝から外で食べる人が多く、広東ほどではないにしろ、朝ご飯が豊富です。

煎餅果子はその中でも有名な食べ物です。煎餅(Jianbing)といっても日本の煎餅とは違い小麦粉を延ばしたものをいろいろなバリエーションで焼いたものですが、ここではクレープ皮のように延ばしたものの上にいろいろなソースを塗りつけて最後に油条(ねじり揚げパン)を挟み込んだものです。では果子とは何か? 天津弁で油条です!

天津にはまだまだ名物があります。「天津三張」と呼ばれる3人の張さんが広めた名物があり、一つは「泥人張」これは泥人形ですが、高級なものは大変精巧で、今は世家と宗家に分かれて発展しています。

次は「蹦豆張」。これはソラマメを塩やしょうゆ味で煮染めたもので硬いものは歯が折れそうになるものもあります。最後に「果仁張」といってこれは甘味です。名物にうまいものなし? どうでしょう!? ぜひ現地でお試しください!


日本人小学校の運動会にラグビー仲間と参加!

そして最後にご紹介するのは大道芸を含む娯楽芸能です。

先ほど出てきた快板も天津発祥ですが、最も有名なのは漫才です。中国語では「相声(Xiangsheng)」といいますが、全国にある相声の発祥の地は天津だというのです。

今も居住区一区画に1ヵ所漫才劇場があるほどで、日々人々が集って笑い声が絶えません。

わたしも時々聞きに行くのですが、いろいろある中でも天津弁のぼけに標準語で突っ込む、というパターンが聞いていて音が面白く、ほとんど分からないのに、皆とほぼ同じタイミングであはあは笑って分かったような気になるのも楽しいひとときです。

一時は、広東/深圳、上海/浦東に続く第三極として、天津市の東に位置する濱海新区を中心に大きく発展する計画を持っていた天津市。現在の習近平政権となり少し発展のスピードが落ちてきたようにみえますが、京津冀(北京・天津・河北省)の三位一体発展計画の中で、天津と北京を三角形でつないだ一辺として天津の西に新たにハイテクの集積地として位置付けられた河北省の雄安新区を控え、その雄安新区を製造業で支えるという意味でも、天津はまだまだ、今後の大きな変革の中でさらなる発展の余地を残した街であると確信します。

北京から高鉄(中国版新幹線)でわずか40分の天津ですが、北京在住の日本人の方でも来られたことのある人が少ないのは残念です。

まだまだ紹介し足りない天津ですが、これが今後の天津へのいざないの一助となれば幸いです。

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