オムスクに暮らして

三井物産株式会社 CIS修業生(在オムスク)
諸岡 耕作

流刑の町、オムスク


オムスクのウスペンスキー大聖堂。町最大の観光スポットで、人々からは単に「サボール(聖堂)」と呼ばれ親しまれています

私は2017年8月より、社内の語学研修制度の一環で、ロシアの西シベリアに位置するオムスクという都市で生活しております。

オムスクという都市名を聞いたことがある方は少ないのではないでしょうか。私自身、派遣が決まるまでこの町のことは一切知りませんでした。私にとって初めての海外長期滞在先となるオムスクとはいったいどのような町なのか、派遣前に調べてみると、なんとオムスクはかの文豪ドストエフスキーの流刑地であったとのこと。オムスクでの過酷な生活は彼の作風にも多大な影響を与えたとされており、私の派遣先はさぞ恐ろしい地なのだろうと眠れぬ夜を過ごしたことを覚えております。

それから時がたち、オムスクにて既に9ヵ月ほどを過ごしておりますが、想像通り恐ろしくもあり、それ以上に温かくもあり、というのがこの町に対する私の印象です。あくまで語学研修の形で滞在しておりますので、今回は経済そのものよりも、この地で人々がどのように生活しているかを中心にお届けできればと思います。

オムスクは西シベリアの中心都市で、人口は約118万人と、最大都市ノボシビルスクに次いでシベリアでは2番目の大きさを誇るロシアの地方都市です。実はノボシビルスクよりも町の歴史は古く、ロシア帝国時代の18世紀前半に建設され、西シベリアの行政を管轄する総督府も設置されており、19世紀末にはシベリア鉄道駅も敷設されてロシアの東西交流の拠点になるなど、帝政が崩れる20世紀初頭までは政治・経済・文化全てにおいて紛れもなく西シベリアの中心都市でした。しかし、帝政崩壊後のロシア革命期には革命に抵抗する「白軍」の反革命政府が置かれ、レーニンら革命勢力「赤軍」との衝突の最前線となってしまい、内戦後にはソ連政府がオムスクからノボシビルスクへ都市機能を移したためにオムスクは停滞し、シベリア最大都市の称号を譲ることになってしまった、といわれています。なんとも悲しい歴史です。


町の中心であるレーニン通りに位置するドラマ劇場。モスクワからも著名な俳優が公演に来るなどシベリア有数の劇場で、数年前に改装され外観も美しいです


ドラマ劇場の内部。規模は小さめなため、著名な劇を間近で見られるのが魅力です


しかしオムスクは今でも、シベリア文化・芸術の中心とされています。町の中心であるレーニン通りには大小さまざまな美術館や劇場が立ち並び、それらの多くは19世紀ごろから存在する建築をそのまま生かした、絢爛(けんらん)豪華なものとなっています。他にもシベリア最大の蔵書数を誇る図書館や大聖堂もあり、その文化都市らしさは、「シベリア=何もない極寒の地」という先入観を引っ提げてオムスクへ来た私にとっては衝撃でした。また教育都市としても有名で、至る所に国立大学が並び、若者が多いのも印象的でした。

流刑の地であったこともあるこの町は、現在は私の想像以上に都会で、赴任した2017年8月当時は、ほっと安心したことを覚えています。しかしそれは、つかの間の安息でした。


過酷な冬


2月ごろのオムスク。快晴でもマイナス30℃近く、木々は枝まで凍り付きます

赴任から2ヵ月もたたない10月初旬に、初雪が降りました。それから見る見るうちに冷え込み、11月には平均気温が氷点下になっていました。以降も冷え込みは止まらず、年が明けた1月末にはマイナス40℃近くまで下がり、私は文字通り震え上がりました。オムスクは、少なくとも寒さについては、日本人が想像した通りのシベリアをしっかりと体感させてくれる町でした。

家から語学研修場所である大学まで徒歩10分ほどなのですが、真冬はその10分ですら寒い。とにかく寒い。マイナス15℃を下回ると鼻毛が凍り始め、息を吸うと鼻の中が凍り付くのが分かります。携帯を外で出そうものなら数分で電源が落ち、長く歩き過ぎると頰が白く凍ってうまく笑うことができなくなります。少し気を抜くといつでも凍傷の危険があるという極限の世界でした。

一方で屋内は暖房完備で費用も定額なので、冬の間暖房は常時つけたままで過ごします。屋内ではTシャツ1枚でも過ごすことができるので、屋内にいる限りは、実は日本の冬よりも快適です。しかし、これもシベリアの恐ろしさなのですが、オムスクの人々の多くは「散歩」が大好きで、友人たちは冬でも私を散歩に連れ出しました。彼らが真冬と感じるのはマイナス30℃を超えてからのようで、マイナス20℃程度であれば数時間の散歩に繰り出すことはままありました。慣れないロシア語を聞きながら、分厚く凍り付いた川の横を歩きながら、弱々しい陽の光を背に、頰が凍り始めたのを感じつつ、目的もなくただ歩く。しかし人間とはたくましい生き物で、私自身そんな過酷な日々にも徐々に慣れてしまい、3月末のマイナス10℃に暖かさを覚えて、春を感じた時はひとり笑ってしまいました。


素朴な価値観


5月の戦勝記念日の「不死の連隊」の様子。こうした行事には皆参加し、祝日を心から祝い合います

オムスクの人々はよく、「同じロシアといっても、モスクワとサンクトペテルブルクは別の国。昔ながらのロシアは、シベリアにある」といった旨のことをよく口にします。私はまだオムスクにしか住んだことがないので明確な違いは分かりませんが、確かにここオムスクには、日本人とは少し異なる価値観があるような気がしています。

まず、オムスクの人々は「祝日」を本当に大切にします。ここでいう祝日は、もちろん戦勝記念日のような国民の休日も含みますが、休日ではない祝日も彼らは必ず祝います。有名なところでは、1960年代の世界初の有人宇宙飛行とその宇宙飛行士ガガーリンを祝う「宇宙飛行士の日」、一週間かけて冬の終わりと春の訪れを祝う「マースレニッツァ」など。個人的に不思議に思ったところでは、学校の先生に日頃の感謝を告げる「先生の日」、その日に生まれた人は多くがタチアナと名付けられ、タチアナさんをお祝いする「聖タチアナの日」など。ロシア正教に絡む祝日からソ連時代に生まれた風習まで、オムスクの人々はそれら全てをよく覚えており、祝日を迎えるたびに友人同士でケーキを持ち寄って祝ったり、老若男女問わずプレゼントを交換し合ったりします。

おのおのの祝日の意味をよく覚えていて、仕事が休みになるわけではないのに日々を祝い合う人々を見て、私は素朴な温かさを感じました。一方で、ロシア語の授業の一環で、日本にはどういった祝日があって人々はそれをどのように祝っているのかと聞かれた際に、うまく答えられなかった自分が少し恥ずかしくなりました。私にとってはもう長いこと、「祝日=休日」でしかなく、祝日に何かを祝うことなどなかったなと思い至り、複雑な気持ちになったことをよく覚えています。

また、これはロシア全体の気風かもしれませんが、オムスクの人々は非常にユーモアを好みます。ロシア語自体にも反語表現やさまざまな感情を表す皮肉な表現が多く、それを使えるだけで友人たちと打ち解けやすくなるなど、ユーモアへの理解がコミュニケーションの重要な位置を占めているのが、個人的には印象的でした。ソ連時代の映画での言い回しや、昔ながらのことわざすらも会話に頻出するので、外国語として学ぶ側としてはかなり大変なのですが。

生活環境が過酷で、明日が見えなくても、皮肉でそれを笑い飛ばして前向きに生きるのがロシア流だと、特に年配の方々は言いますが、ソ連崩壊後の混乱をその考え方で乗り切った方々なので言葉の重みが違います。ロシア語には「авось(アヴォースィ)」という単語があり、日本語に訳すのは少し難しいのですが、ひょっとしたら、待っていれば全ての物事がうまくいくのではないか、という期待を示す言葉で、この言葉はオムスクの人々の気質をよく表しているように思います。よく言えば楽観的、悪く言えば人任せ運任せな価値観。けれど私自身、あの極寒を経験した後は誰だっておおらかにならざるを得ないと思えています。彼らの考える通り、幸も不幸も来るときは来るので、大切なのはそれをしっかりと受け止めて、皆と喜んだり悲しんだりできるかどうかなのではないかと、少し哲学的なことも考えてしまいました。


経済と、オムスクから見た日本


5月、自宅近くの公園にこいのぼりが出現。2018年は「ロシアにおける日本年」ということで、町で日本語や日本文化ゆかりのものをちらほらと見掛けます

最後に少しだけ、オムスクの経済について触れておきます。オムスクの経済はやや停滞気味といわれています。オムスク州自体には主だった天然資源はありませんが、州の北部にはロシア有数の石油会社ガスプロム・ネフチの石油精製工場があり、オムスクの多くの人々が同工場で働いています。オムスクの経済はガスプロム・ネフチ(正確には2005年に天然ガス会社ガスプロムにより買収される以前の前身会社シブネフチ)の税収を軸に潤っていましたが、2006年に登記上の本社がサンクトペテルブルクへ移ってしまい、同社からの税収を失ったことも影響して財源が不足しがちとなり、特にインフラ整備が滞っているといわれています。現に、オムスクには造りかけの地下鉄駅(開通直前で税収が途絶えたために立ち消えになり、駅だけが残されています)があったり、ボロボロの道路が目立ったりと少しばかり切ない風景が見られます。ロシアにおける100万人都市の中でオムスクは最も平均月収が低いとする調査もあり、地方都市とはいえかなり厳しい経済状況にあることは間違いないようです。ただ個人的には、シベリア有数の教育都市であるために人々の教育水準は他の主要都市に一切劣らないと感じていますので、平均所得の低さを逆手にとって、例えば立地の悪さを苦にしないITビジネスなど誘致できれば面白いのではないかというのが私の印象です。

また、こちらは経済状況がどこまで関連しているかは分かりませんが、オムスクにおける日本の人気は相当に高いように思えます。ロシアでは、人々は日本についてアニメなどを通じて知り、非常に強い関心を持っていますが、オムスクのそれはかなり強い憧れまで含んでいるような印象を受けます。


5月、美術館でのボランティア時に、友人と。真ん中が私で、浴衣を着ています

オムスクに住む日本人は、私の会社から派遣されている語学研修生のみなので、私が日本人と分かるとオムスクの人々は誰もが興味深そうに話し掛けてきます。どうしてオムスクなんかにいるのかといった皮肉から、日本にはハラキリやニンジャはまだ存在するのかといった、いかにもな質問までよく聞きます。日本車はここオムスクでもかなりの人気を博しているので日本製品への信頼も根強く、なぜか私に向けて日本製品への感謝を告げてくる人もいます。また、日本文化への関心も強く、美術館のイベントにボランティアとして参加した際、浴衣を着ていただけで写真撮影の依頼がやみませんでした。同イベントは来場者の名前を日本語で書いてプレゼントする、という企画だったのですが、なんと1,000人近くが来場して、名前を筆で書いてあげただけでひどく感謝されるなど、オムスクにおける日本人気を実感した一日でした。

以上、つらつらと書いてしまいましたが、シベリアのオムスクで痛感したのは、日本人はあまりにもロシアのことを知らないということです。シベリアは恐ろしい土地なのではないかと、むしろ恐怖感しか持っていなかった自分が、今ではなんだか恥ずかしく思えます。ロシアの人々は日本を「遠くて近い隣国」と呼んで強い関心を持ってくれているのですから、こうしてシベリアで暮らすという貴重な経験をできた自分は、これからロシアと日本との橋渡しとなる仕事を創り出して、日本でロシアを知る人を増やすことができればいいなと、思っています。

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