ベトナム「天女舞う国」

NIPPON STEEL & SUMIKIN BUSSAN VIETNAM CO., LTD.
代表取締役社長
大羽 智之

1. はじめに


ベトナムのホーチミン市に赴任して1年 9 ヵ月がたちました。出張で訪れたことがありましたが、住んでみてあらためてベトナムという国の奥深さがやっと実感できるようになりました。駐在の長い諸先輩には、いつも「まだまだ甘い」と言われていますが、ホーチミン市で熱帯モンスーン気候、ハノイで亜熱帯気候を経験し、人々との触れ合いを重ねるにつけ、その甘さ辛さが分かるようになり、その対処の仕方も身に付いてまいりました。プライベートでは高見をしなければ快適ですが、いったん、ビジネスとなれば一筋縄ではいかないことがこの国には多々見受けられます。
ベトナム人は、おおむね日本人には優しく、対日感情は悪くありません。空港や道路他、さまざまなインフラが日本のODAで建てられたことを知っています。また日本人の努力を惜しまない姿、それでいて穏やかなところも周知されているようです。一方、日本人の細かさや勤勉過ぎるところ(これが習い性なのでしょうがありませんが)は、いささかへきえきするようです。
ベトナムは、東南アジア諸国と同様かそれ以上にビジネスチャンスがあふれている国であると実感しています。「甘い辛い」ではなく、ベトナムの「甘さ辛さ」を少しだけグチも混ざりますが、然徒(つれづれ)と記してまいります。


2. 日越交流と歴史


サイゴン川

2013年は日越友好40周年を祝って当地では200もの記念事業が実施されました。2011 年にグエン・タン・ズン首相が訪日した際、日越友好40周年記念事業を推進しようとの共同声明に署名されたことからこの事業が始まりました。2013年の記念事業では、Jリーグ(鹿島、川崎)と地元チームとのサッカー親善試合がハノイとホーチミンで行われ、日越友好列車がハノイ-ホーチミン間(約 1,800km)を往復しました。日本企業主体のさまざまなチャリティー事業、日本文化の公演会、日本企業が集まるホーチミンの南の国道沿いには大きな看板も立ち、ベトナムの人たちもその長い友好の歴史を知ることができたのではないでしょうか。
日本とベトナムの交流の歴史は、古くは “海のシルクロードの時代”にさかのぼるといわれています。ベトナムは有史以来、中国に支配されていました。その支配の歴史にも日本人が絡んでいます。8世紀、阿倍仲麻呂が唐から日本に帰る際に苦難続きで結局日本に帰れなかったことは、日本史の授業でも習いました。その道中、彼は悪天候のため運悪くベトナムのビンというところに漂着してしまいます。余談ですが、この時、寧波を出た帰りの船の中で、彼は「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」と祖国への思いを詠んでいます。爾後(じご)、仲麻呂は、いったん長安に帰り、あらためてハノイにあった唐の安南郡護府の長官となってベトナムの地でしばらく暮らしました。当社のスタッフに阿倍仲麻呂ベトナム総督のことを聞いてみると、「全然知らない」とのことでした。
世界文化遺産であるベトナム中部ホイアンの古い町並みには、日本橋や日本人墓地などがあり、16世紀の中国人街と共に朱印船貿易の跡を見ることができます。その後の鎖国で日本とベトナムの交流はしばらく途絶えてしまいます。
明治時代になり、反フランス独立運動に日本が力を貸した「東遊運動」という独立運動がありました。これは、ベトナムの優秀な青年を日本に招き、人材育成をしようというものです。日仏協約によりベトナム人士は日本から追放されてしまいましたが、多くの独立活動家が日本留学によって育ちました。
現在、日本への留学生の4人に1人がベトナム人留学生だそうです。一昨年あたりから急増したということですが、これは日本企業のベトナム進出により、より良い会社に勤めたいということの表れだと思います。人材派遣会社のタリフによると、日本語会話ができる人の給料は英語ができる人よりも高い設定になっています。
1887年、フランスがベトナムをインドシナ植民地としましたが、1940年に日本は北部ベトナムに進駐し、1944 年 3 月にバオダイ帝は、日本の援助のもと独立を宣言します。しかし、1945年の日本敗戦に伴うフランス軍の進駐によって、再びベトナムは戦争の道を歩むことになります。第1次インドシナ戦争では、残留日本兵が両軍に参加し、ベトナムの軍事の近代化に一役買いました。1954年にジュネーブ協定が締結しいったん戦争は終結したかにみえましたが、内戦はやまず、1960 年12月から第2次インドシナ戦争、すなわちベトナム戦争が勃発します。時の大国の冷戦構造から戦火は長引き、1973年のパリ平和協定(米軍撤退開始)を経て1975年4月30 日にベトナム戦争は終結します。
初めてホーチミン市にある統一会堂(旧大統領官邸)を見学したときには、ここから脱出するヘリコプターやここに突入する戦車を、子供のころテレビで見てなんとも悲しい気持ちになったことを思い出しました。戦争博物館は、戦争の悲惨さを展示しています。これでもかと迫ってくる悲惨な写真は「戦争なんて勇ましいものではなく、ただただ惨めなものなのだ」と言っているようです。ベトナムが戦争で大きな痛手を受けたのは周知のことですが、今となってみればベトナムで戦争を体感できるのは博物館だけとなったのかもしれません。ひとたび博物館から外に出て市街地を歩いていると、人々は活気にあふれ、仏領インドシナ時代の美しいコロニアル建築は悠久の歴史に思いをはせる一助となり、目を楽しませてくれます。


3. 日本企業のベトナム進出


統一会堂

1973年9月のパリ協定締結に伴い、日本とベトナムは外交関係を樹立。その後、経済制裁、中越戦争の歴史はありますが、1986 年のドイモイ政策、1991年ソ連崩壊、1992年ODA再開、1993年米対越経済制裁解除、日 越 直 行 便 就 航、1995年ASEAN、1998年 APEC、1996年AFTA加盟等を経て、ベトナム経済は大きく躍進しました。それに伴い、日本企業のベトナム進出が始まります。
2007年にはWTOに加盟しましたが、このころ、ベトナムにはGDPの25%相当の越僑送金が流入し、金余りとなりました。実直に蓄財に努めればいいのですが、ベトナム人は未来の蓄えよりも目先の幸せを追求する人たちが多いので、旺盛な需要は輸入に向かい貿易赤字となってしまいました。経済は、貿易赤字→ドン安→輸入インフレ→金利上昇のスパイラルループに入り込みます。2010年末の急激な外貨不足から2011年には世界最悪の19%のインフレ、金利は20%を超えたことから、「高度成長」から「長期安定」に路線を変更せざるを得なくなり、今に至っています。
GDPの成長率も5.4%と、特に農業、漁業、鉱業の成長は著しく鈍化しています。2013 年度の平均CPI上昇率は6.6%とここ10年で最低の水準となりました。今は携帯電話の輸出で貿易黒字となっていて、為替市場は安定した推移をしています。ただ、政治は安定していますが、経済は何か起こればすぐにぶれてしまいそうな底の浅さが見え隠れします。 2013年のベトナムのGDPは、1,700億ドルで日本の約30分の1、京都府や新潟県と同じ経済規模です。9千万人の人口の生産する額にしてはあまりにも小さいといえるのかもしれません。
日鉄住金物産の前身である日鐵商事および住金物産は1993年にそれぞれ駐在員事務所を開設し、20年にわたる歴史をこの地に刻んでまいりました。外国商社の輸出入取引、国内販売取引が可能になり、日鐵商事は2010 年、住金物産は2012年に法人登録。2014年1 月に統合認可が下り、日鉄住金物産ベトナム会社となりました。進出当初の取扱品種に比べると現在とは全く違う品種構成となっており、ベトナムの発展に伴って、高品質な商品の割合が増えています。
ホーチミン日本商工会が設立された 1994 年の加盟社数は 69 社でしたが、今では 670 社にもなっています。現在、日本商工会はハノイ(北部、520 社)、ダナン(中部、60 社)、ホーチミン(南部)に設立され、ベトナムで事業を継続する上での問題点の共有・解決に向け各部会に分かれて活発な議論をしています。議論が白熱すると、喉が渇きビールとなり、続きをグリーンミーティングで、との約束となるのが世の常。公私分け隔てないお付き合いの場ともなっています。
在留日本人は、北のハノイ・ハイフォン地区で約5千人、南のホーチミン周辺地区で約5千人、合計約1万人といわれています(韓国人は10万人もいます)。1994年以降、ベトナム政府は、輸出産業強化を呼び掛け外資企業を誘致してきました。ハノイ、ハイフォン(北部)、ダナン(中部)、ホーチミン(南部)の各地区には工業団地が開設され、さまざまな企業が工場を構えています。日本企業は、安い賃金で働いてくれる優秀な労働者や税制優遇を求めて工場進出しました。特に労働集約的な産業の進出が目立っています。また、業種は、電気・電子機器、運輸・倉庫、機械、鉄鋼・非鉄金属・金属製品、輸送・運搬機器、繊維・繊維製品と満遍なく進出しています。
ベトナム政府が許可した世界からの直接投資額は、1988年3.4億ドル(37件)が、2008年のピークには、717億ドル(1,557件)と 2000 年を境に劇的に増えています。近年では、各国経済の鈍化から、金額、件数とも減っています。2013年度は、216億ドル(うち日本、58億ドル)となっています。累計認可額では、日本、シンガポール、韓国、台湾の順となっており、近年では中国の投資が目立ってきました。


4. ダイナミックなベトナム、悠久のベトナム


私は着任してからの低成長のベトナムしか知りませんが、前任者からは「5年後にはダイナミックに変化しますよ!」と引き継ぎを受けました。1年半では劇的な変化はないものの、一般道の拡張整備、高速道路の開通、都市鉄道の施設等プロジェクトはひっきりなしです。少しずつですが、プロジェクトの進捗も見て取れます。これら各国ODAが完成した暁にはさぞや素晴らしいベトナムの姿が、と期待しています。しかし、それはハノイ、ホーチミンを中心とした放射線状に延びる線でしかありません。郡部の国道は舗装こそされていますが、片側1車線で路肩にはバイクが走っているので、離合はチキンレースの様相を呈します。開発はゆっくりにしか進まないので田舎町までその効果が表れるまでどれくらいの時間がかかるのだろうと思うと、暗たんたる気持ちにならざるを得ません。
しかし、ベトナム人はそんなこともあまり気にせず、悠久の時間の中に暮らしているようにもみえます。日々の倹しい暮らしの中で小さな幸せを大きな喜びとして受け止め、積極的に楽しむ術を知っているかのようです。節季のお祝いであるバレンタインデーやクリスマス、旧正月のお祝いなど「これでもか」というほど楽しんでいます。道路の開通式や工場の開所式、地元の会社では設立記念日にもパーティーを開いて広くお客さまを招待し、喜びを分かち合います。先日、ホーチミン市にベトナムで初めてマクドナルドが開店しました。あるスタッフがわざわざ並んでハンバーガーとフレンチポテトを買ってオフィスのみんなに振る舞っていましたが、みんな「おいしい!」と大騒ぎしていました。今までと同じハンバーガーだからとみんなが喜んでいる姿を横目に見ながら頬張ると、みんなの笑顔に包まれて感動と喜びが口の中に広がりました。ハンバーガーに目を輝かせ「ボス、おいしいね」と素直に喜んでいる姿に大きくうなずいていました。ちなみにスターバックスも盛況で、カフェの10倍近い値段のラテを楽しむ人も増え、新規店舗が順次開店しています。どんなことでも幸せを見いだして大喜びできる前向きな気持ちは、日本にいたころには忘れていた感覚です。


サイゴン中央郵便局

人民委員会庁舎


5. 最後に


寄稿に際して、ベトナムの概要を見つめ直し、今まで見過ごしていた人々の姿を見つめ直すにつけ、この国の可能性を思わずにいられなくなっています。平均年齢29歳。安定した政情。治安の良さ。質の高い労働力。親日感情。優しい人たち。真面目な人たち。キーワードはいくらでも見つかります。ベトナム駐在をしていた大先輩から「この国と人を愛さないと、仕事は絶対にうまくいかない」というアドバイスを頂きました。日本式に物事が進まないところに最初はイライラもしました。しかし、丁寧に説明をし、繰り返しアドバイスを求めることによって、今では考えていることを先回りしてくれるようになりました。楽天的な人たちも、苦労し苦労に耐え乗り切ることに価値を見いだしていることも確かです。そんな当社のスタッフのほとんどが女性です。前述の大先輩は、ベトナムを「天女舞う国」と題し、ベトナムへの愛情と優しいエピソードにあふれた本をしたためられました。「天女」とは民族衣装のアオザイを着た美しい女性のことだと推測できますが、働き者の女性の強さ、素晴らしさも表現しています。
趣のある街並み、活気にあふれた人たちとおいしい料理が皆さんをお待ちしています。ぜひ、お越しください。

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